名前と称号
始皇帝・趙政という呼び方については諸説あります。
少し見ていきましょう!
「正」か「政」
紀元前259年の正月に趙の邯鄲で生まれたので名を政とした。姓は趙氏である。
『史記』より
史記の著者である司馬遷が、正月の「正」を「政」に書き換えたという説があります。
古来中国には避諱(ひき)という習慣があり、死後に位の高い人物の名前の漢字を変えて表記することがありました。
偉い人過ぎて、誰も彼の本名を
口にしてはならない。
まつりごとを意味する「政」の字にしたのは、始皇帝が優れた政治家でもあった点を考慮して付けたのではないかと考えられているのです。
2009年に発見された『趙正書』では、始皇帝の死の直前から秦の滅亡までが書かれています。
この時代の始皇帝の名前として「趙正」との記載があるのです。
始皇帝
天下統一を果たした秦王・政は、それまで使用されていた王号を廃止して、新しい称号を考えるよように部下たちに命じます。
李斯たちは「泰皇」という称号を提案しますが、秦王・政は気に入りません。
そこで秦王・政は自分で考えます。
「始」・・・始まりの意味
「皇」・・・光り輝くという意味
「帝」・・・古代中国の神話に登場する五帝の帝
これで「始皇帝」です。
これが本当の話ならば、皇帝という言葉は秦王・政が生み出した言葉ということですね!
統一事業
- それまでの「王」に代わる「皇帝」の称号を作り自らが名乗る。
- 六国バラバラだった制度を統一する施策を行う。
- 万里の長城を築かせる。
- 統一の翌年から、5度にわたり天下の巡業。
①に関しては前項の【始皇帝】で記載してあります。
郡県制
「封建制」を廃止して、秦で採用されていた「郡県制」で統一しました。
国内を36の軍に分けて全てを統治したのです。
国内の地域をそれぞれの領主に統治させ、国に貢物や軍事力の奉仕を義務付ける制度。地方の力が強くなりすぎて、反乱が起きる可能性があるデメリットがあった。
地方分権から中央集権国家を
目指していったのね。
「度量衡」等の単位を統一
インフラを整えて政治を行っていくうえで、単位の統一は無くてはならないものでした。
・重さ
・容積
・長さ
・文字
・暦
・貨幣
・車軌(車のタイヤの幅)
度量衡は重さ・容積・長さ
のことだよ!
度量衡の単位の基準となる同じ、ものさし、桝(ます)、はかりが中国全土に配布されました。
これは税の徴収にも大きく関わるもので、決められた単位を守らないものには罰が与えられました。
万里の長城
将軍の蒙恬(もうてん)や楊翁子(ようおうし)に北の匈奴を討たせ、黄河流域のオルドスを手に入れ併合します。
各国の長城を繋げさせ、「万里の長城」を築かせました。
ここでポイントになるのは、全てを新しく築いたのではなく、秦・燕・趙にすでに存在していた長城を繋いで整備したという点ですね。
蒙恬を北方に留まらせ、匈奴の反撃に備えさせました。
始皇帝の最期
始皇帝・政は晩年、不老不死の薬を探させていました。
前210年、5回目の天下巡業の途中で亡くなりました。
宦官・趙高と丞相・李斯はその死を隠し、始皇帝の偽詔を作って太子・扶蘇と将軍・蒙恬を死に追いやります。咸陽に戻ると末子の胡亥を二世皇帝に立てました。
始皇帝の死を隠して帰国する途中には、まだ生きているように装う必要がありました。
そのため食事の上げ下げを行ったり、遺体の腐敗集を隠すために大量の発行した魚を積んだ車を一緒に走らせらりしました。
匂いが凄かっただろうし、もしかしたらと気が付いている人もいたかもしれませんね。