泓水(おうすい)の戦い。敵に情けをかけ楚に負けた宋。斉の襄公と宋の襄公は別人だよ!

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各地で勃発する諸侯の中でも、いち早く覇(は)を唱えたのは斉(せい)でした。

目次

斉の襄公と内乱

斉の歴史は、周の武王が太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)を同地に封じたことに始まります。史上に登場するのは14代襄公(じょうこう)の時代のころからです。

襄公は紀(き)国を併合するなど斉の勢力拡大に尽力しました。しかし一方で女性関係にだらしない男で、魯の桓公(かんこう)に嫁いだ妹と私通(しつう)するほどでした。

それが表沙汰になると、魯の桓公を亡き者にするという非道な面も持ち合わせていました。しかしそのような王に家臣が付いていくはずもなく、前686年に斉の貴族である無知(むち)に襄公はあやめられてしまいます。

こうして一時的に斉王の座に就いた無知でしたが、前685年に彼に恨みを抱く暴漢に襲われて亡き者にされました。

その後に斉王になったのは名君として名高い桓公です。桓公は宰相(さいしょう)である管仲(かんちゅう)に国政をゆだね、善政を布いたため国は富、やがて王に代わって諸侯に号令する【覇者(はしゃ)】として君臨します。

しかし前643年に桓公が亡くなると、その跡をめぐって、斉国内では激しい後継者争いが勃発しました。

公子(こうし)たちが徒党(ととう)を組んで互いに攻めあったため、桓公の遺骸は(いがい)は60数日も放置され、ウジがわいて戸外に這(は)い出すほどの有様だったといいます。

覇者として君臨してたのに放置?
本当は慕われてなかったの?

葵丘の会

覇者となった斉の桓公は諸侯を集めて【葵丘の会】という名の会盟を開いて、下記のような誓いを立てさせました。

第1条 

不孝者は誅殺し、太子を変更すること。妾を妻とはしない。

第2条

賢人を尊敬し、才ある人物を育て、優れた人物を顕彰すること。

第3条

老人を敬い、幼少者を慈しみ、よそから訪れた人に気を配ること。

第4条

士は官を世襲することなく、官の任務を兼任することないよう。士を選ぶ際は必ず優れた人物を得るようにし、君主といえども勝手に大夫をあやめないこと。

第5条

堤防を勝手に曲げて水利を独占しないこと。他国の者が穀物を購入するのを妨げてはならない。人を封建したときは、必ず盟主に報告すること。

宋の襄公、登場

この斉の反乱を治めたのが宋(そう)の襄公(じょうこう)でした。元々、宋は殷王朝の滅亡後、周の武王が殷の紂王の兄・微子(びし)を封じて成立した国です。

諸侯の国に挟まれて存在する小国でありながらも殷の祭祀を連綿と伝え、周王朝からも特別な待遇を受けていました。

桓公は生前以下のような内容の遺言を、襄公に対して残していました。

自分の死後は太子・昭(孝公)を後継者としてほしい。

襄公はその言葉を受けて、内乱状態にあった斉に進軍すると、孝公を奉じて斉王の座に就けたのです。

こうした功績からやがて襄公は桓公に代わり、自らが覇者になろうと目論むようになります。そして曹(そう)や邾(ちゅう)といった諸侯としきりに会盟(かいめい)を重ねるようになったのです。

泓水の戦い

しかしこのような襄公のうぬぼれに対して、当時、南方で勢力を伸ばしていた楚(そ)の成王(せいおう)が異を唱えます。そして前638年に両国はついに泓水(おうすい)で雌雄を決するのです。

このとき、両軍は泓水を挟んで対峙していました。いざ楚軍が泓水と渡渉(としょう)し、宋軍へと攻め寄せようとしたときです。宋の宰相・目夷(もくい)は襄公に対して以下のように進言します。

敵は我が軍より多勢であります。敵が河を渡りきらないうちに攻撃をすべきです。

しかし襄公はこの進言を採用しませんでした。

楚の全軍が泓水を渡り終えましたが、まだその陣容は整っていません。そこで目夷は再び攻撃すべきだと進言しましたが、それでも襄公は軍を動かそうとしませんでした。

「敵の隙に乗じて攻めるのは君子(くんし)のすることではない」と拒否したのです。

やがて楚軍が陣形を整えると、ようやく両軍は激突します。しかし数で圧倒的に劣勢だった宋軍は敗北してしまうのです。

それまで蛮族(ばんぞく)の扱いを受けていた楚が、小国でありながらも伝統を持つ宋を破ったことは実に画期的な出来事でした。これによって、それまで黄河流域で行われていた覇権争いは、長江流域にまで広がることになりました。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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