秦の猛将・白起が猛威を振るって15万の命を奪った紀元前237年の華陽の戦い。

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秦と他国の動き

燕の楽毅が五か国連合を率いて斉国へ侵攻した際に、実は秦国も燕の動きに呼応するように出兵して、斉国の陰(いん)という都市を獲得していました。しかし秦から陰へ入るには魏国の領土を通過する必要があります。

秦の昭王は魏国を滅ぼして、陰へ直接入れるようにしたいと野望を抱くようになります。

燕国の昭王と秦の昭王は別人だよ。

前283年、秦はさっそく魏の国都・大梁(たいりょう)に向けて兵を出します。しかし予想に反して、燕と趙の軍が援軍としてやって来たため、秦は軍を退けざるを得ませんでした。秦の昭王は趙が援軍として出てきたのが許せませんでした。

そこで前282年に、韓と魏に脅しをかけて無理矢理に同盟を結ばせ、趙国への侵攻を開始します。趙の都市・藺(りん)と祁(き)を落とし、その翌年には離石(りせき)を落とします。

時を同じくして、南方の楚は東方への進出を開始しており、少しずつ勢力を拡大していました。そこで秦の昭王は前279年地澠池(びんち)で趙と和約を結びます。

前278年に楚の国都・郢(えい)を攻略。楚の東方への進出を防ぎます。こうして北方の趙と、南方の楚の憂いを取り除いた秦の昭王は再び魏国への侵攻を開始します。

前276年に魏の二つの都市を陥落させ、翌年にもさらに二つの都市を落としました。秦軍が魏の国都・大梁にまで来たとき、韓の将軍・暴鳶(ぼうえん)が援軍を率いて向かってきましたが、秦軍はあっさりと討ちやぶりました。

もはや秦に勝つ術がないと魏の王は、温(おん)の地を分け与えることを条件に和睦を願いでたのです。いわゆる降参状態ですね。

華陽の戦い

それまで韓と魏は協力して秦国に対抗してきましたが、韓の王は魏との関係に終止符を打ち、秦に従うという選択肢を選びます。これに怒った魏の王は、趙に援軍を求めて前273年に韓の華陽(かよう)に攻め入ります。韓は秦の宰相(さいしょう)・魏冄(ぎぜん)に助けを求めます。

秦は韓を援護するために、将軍・白起と客卿(きゃっけい)・胡傷(こしょう)の二人を派遣しました。

この「魏と趙 VS 韓と秦」の戦いを華陽の戦いと呼び、秦軍の圧勝に終わりました。

特に秦から派遣された白起の猛攻は凄まじく、魏軍と趙軍を合わせて13万人もの兵士の首を取ったといいます。さらには趙の兵2万人を黄河に沈めたとか。

魏王は恐怖におののき、南陽(なんよう)の地を献上するという条件で急いで和睦を結ぶことを選択しました。

華陽の戦いでの 白起 の強さと残酷さは有名です。

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