陳渉(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱。史上初の農民の反乱!農民出身の王が初めて誕生。

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中華統一を成し遂げた始皇帝でしたが病には勝てず、前210年7月に巡幸の途中、平原津(へいげんしん)で突然発病し、沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)に至ったところで崩御しました。享年50歳でした。

目次

経緯

始皇帝は長子の扶蘇(ふそ)を後継者にするようにと遺書を残しています。この遺書は宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)に託されましたが、扶蘇のもとに届くことはありませんでした。

趙高は自らが権力を握るチャンスと考え、始皇帝から託された遺書を握りつぶしました。そして宰相・李斯(りし)と始皇帝の末子である胡亥(こがい)の擁立を企みます。そして扶蘇を自害へと追い込み、胡亥を二世皇帝として即位させました。

これには亡くなった始皇帝もビックリでしょう!

胡亥は趙高の操り人形同然で、宮廷内の実権は趙高が全て握りました。まず趙高は胡亥のライバルとなり得る兄弟姉妹22人と、始皇帝が任命した重臣らを次々と殺害。始皇帝の死の真相が漏れないように、李斯ですら冤罪を押し付け処刑します。

こうして邪魔者を全て排除した趙高は自ら宰相の地位につき、政治を思いのままにしていきました。

胡亥は趙高の言いなりになって、次々と悪政をしいていきます。始皇帝陵の造営や、当時まだ未完成だった阿房宮(あぼうきゅう)の建設などに農民を駆り出したり、地方の郡都から徴収する穀物量を急激に増やすなど、過酷な農民支配を行っていったのです。そのため当然、多くの民衆が秦に対して不満を抱くようになります。

張楚国の誕生

前209年7月、ついに農民たちの怒りが爆発する時が訪れます。きっかけは900人の農民が北辺の漁陽(ぎょよう)の地の警備に徴収されたことでした。

農民たちが赴任地に向かう途中、ちょうど大沢郷(だいたくきょう)に着いた頃、降り続く大雨のせいで道がふさがれてしまいました。指定された期日通りに目的地に到着することは不可能となったのです。

秦の法律では、期日に遅れたものは死刑という決まりになっていました。皆が死刑を恐れ愕然としている中で、陳渉(ちんしょう)と呉広(ごこう)はこう言いました。

どうあがいたところで、期日には間に合わないのだから死刑だ。もし刑を免れたとしても、辺境警備の任期内に十人のうち六、七人は死んでしまう。

どうせ死んでしまうのであれば、反乱を起こしてひと暴れしてやろうではないか!

こうして立ち上がった陳渉と呉広は、引率者の武官を斬りつけて、

王侯将相(おうこうしょうしょう)、寧(いずくん)ぞ種(しゅ)あらんや!(王や諸侯、将軍、宰相、生まれつきそうなると決まった人種があるわけではない!)

こう一同に呼びかけ挙兵しました。彼らは木を切って矛(ほこ)とし、竿を旗代わりにしました。

この時、陳渉は秦の太子・扶蘇、呉広は楚の名将である項燕(こうえん)の名をかたっています。これは彼らの名声を利用して各地の群衆を糾合するためでした。

最初は900人だった反乱軍が、各地の郡県において賛同者が続出し、旧楚の城である陳(ちん)に到着した頃には、戦車700乗余り、騎馬一千余り、兵卒数万という大軍を擁するまでになります。

陳渉軍が陳を占領すると、陳渉は皆に後押しされて王位に就き、【張楚(ちょうそ)】という国を作りました。こうして中国史上初めて起こった農民の反乱は、農民から初めて王を生み出したのです。

王になった陳渉はいよいよ秦の国都・咸陽攻めを計画します。周文(しゅうぶん)を将軍とします。周文は以前は楚の項燕(こうえん)に視日(しじつ)として仕えていました。自分は兵法に詳しいと自ら名乗りをあげた人物です。

陳渉の命を受けて咸陽へ進軍した周文は、行く先々で秦に敵対心を抱く人たちを徴兵します。函谷関に着いた頃には戦車一千乗、兵卒数十万という大軍に膨れ上がっていました。そして反乱軍は函谷関を難なく突破!

陳勝はどんな人物?

『史記』には陳勝の残した有名な記録があります。

日雇い仕事をする農民だった陳勝は仲間に、「偉くなってもお互いに忘れないようにしようね。」と言いました。仲間たちは「今こんな日雇いの仕事をしているのに、どうやっても偉くなんかなれっこないさ。」と笑いました。

その時、陳勝は空を仰ぎながらこう言ったそうです。

燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや

ツバメやスズメのような小さな鳥には、鴻鵠のような大きな鳥の気持ちは分からないだろう(普通の人には偉大な人の考えは理解できない)という意味です。

鴻も鵠も大きな鳥を表す字で、
偉大な人物の例えにも使われるよ!

この話には続きがあるんです。陳勝が王になって間もない頃に、日雇い仕事をしていた時の雇い主が陳勝に会いに来たそうです。

彼は陳勝の日雇い時代の話を周りの人に面白く語りました。思い出話のつもりだったのでしょう。

しかし陳勝の部下の一人は陳勝の王の威信を落とすものだと進言します。陳勝はその進言を受けて、その雇い主を殺してしまいました。

よくありそうな話ですが、なんだかガッカリですよね。昔からの農民仲間はさぞ失望したことでしょう。

楚の章邯(しょうかん)の登場

この知らせを聞いた秦王・胡亥(こがい)は驚き、家臣たちにどうしたものかと問いかけます。しかし家臣たちは誰も発言しません。趙高の存在を恐れて、不用意な発言が出来なくなっていたのです。

その時、宮中内で少府(しょうふ)の地位に就いていた章邯(しょうかん)が、覚悟を決めて以下のような発言をしました。

先帝ぼ陵墓で働いている二十万にも及ぶ囚人たちの罪を許し、彼らに武器を与えて反乱軍にぶつけるとよいでしょう。

藁にもすがりたい思いだった胡亥は、すぐにこの案を採用。章邯は囚人軍を率いて、周文率いる反乱軍と対峙しました。反乱軍は兵力の面では優勢でしたが、全体の指揮は取れておらずきちんと機能していません。章邯はこれを瞬く間に打ち破り、逃亡した周文を澠地(べんち)まで追撃して、自害に追い込みました。

一方このころ、呉広は滎陽(けいよう)を攻めていましたが、なかなかおとすことが出来ずにいました。そんな時に周文が敗戦したことを呉広陣営は知らされます。田臧(でんぞう)は以下のようにくわだてます。

戦が下手な呉広に任せていてはいつまでも秦軍には勝てない。ここはひとつ呉広を亡き者にして、自分たちが軍の指揮をとって戦おう!

指揮権を奪った田臧でしたが、結局、章邯の軍に負けてしまいます。

農民軍は全然まとまってなかったんだね。

新しい火種

農民の反乱軍を次々と平定していく章邯の勢いはとどまることを知らず、張楚の国都・陳(ちん)へ攻め込みます。陳渉は戦いますがあえなく敗戦。逃亡したがその途中で、御者(ぎょしゃ)の荘賈(そうか)に亡き者にされてしまいます。

こうして陳渉・呉広の乱はたった6か月で鎮圧されてしまいました。

しかし反乱の火種は確実に各地に飛び火していきました。各地で立ち上がった反乱軍の中から頭角を現したのが以下の3人です。

・楚の項燕の子ども・項梁(こうりょう)

・項燕の甥っ子・項羽(こうう)

・農民出身の劉邦(りゅうほう)

お話は楚漢戦争・彭城の戦い編に続きます。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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