楚漢戦争と彭城(ほうじょう)の戦い。項羽にひたすら謝罪する劉邦。二人の関係性はどうなる?

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二人が亡くなった陳渉・呉広の乱のあとも反乱は収まる様子はなく、秦に対する抵抗が各地で続いていました。その中心を担ったのは項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)でした。項氏は代々楚の将軍を務めた名門の家柄であり、項羽は名将と知られた項燕(こうえん)の孫にあたります。

目次

秦王朝の滅亡

前209年9月、陳渉・呉広の乱を耳にした項羽と項梁(こうりょう)は、会稽郡(かいけいぐん)太守(たいしゅ)の首を斬り、賓客(ひんきゃく)・子弟八千人を率いて挙兵します。西に進み、次々と秦の郡と県を攻略していきました。

前208年4月頃、劉邦は項羽・項梁軍と合流します。沛県(はいけん)の亭長(ていちょう)を務めていた劉邦は、周囲に祭り上げられて沛県知事になり、三千人の兵を率いて秦に反旗を翻したのです。

そんな時、項羽・項梁軍のもとに陳渉が討ち死にした知らせが届きます。陳渉軍と合流しようと考えていた項梁は慌てます。しかし軍略家・范増(はんぞう)が、楚王家の末裔を楚王として擁立して反乱軍の盟主に仰ぐべきだと進言します。

項梁は楚の懐王の孫・心(しん)を懐王として、楚国復興の反乱軍の大義名分として掲げました。

こうして各地の反乱軍の結集を図り西に進軍した楚軍でしたが、前208年9月に秦の将軍・章邯(しょうかん)に襲撃を受けて、項梁が亡くなってしまいます。

体制の立て直しを余儀なくされた懐王は全軍を二軍に分け、先に関中(かんちゅう)を平定したものをその地の王にすると宣言します。そしてそれぞれ、函谷関経由、武漢経由で秦の国都・咸陽へ侵攻させました。

敵をことごとく殲滅してから進軍する項羽に対して、無用な戦いは避けて進軍する劉邦。結果的に戦いに時間をかけずに進んできた劉邦の方が、咸陽に早く到着することができました。

前206年10月、趙高に殺害された胡亥(こがい)に代わって秦王になっていた子嬰(しえい)は降伏。こうして秦王朝は滅亡したのです。

趙高、操り人形にしてた胡亥まで亡き者に…。

項羽と劉邦

咸陽に入った劉邦は、軍による一切の略奪を禁じた他に、秦の法律を廃止しました。そして以下の新しい法を布告して、民衆から迎え入れられました。

法三章 人を殺害したものは死刑。盗み・傷害を働いたものは程度に応じて罰を与える。

項羽が函谷関に至ったときにはすでに劉邦の配下が関所を閉めていて、項羽軍は中に入ることが出来ませんでした。そして劉邦軍の方が咸陽に早く到着したことを知った項羽は激怒します。

劉邦を討ち取ることを決め、すぐに函谷関をおとして、咸陽に進軍を開始しました。項羽軍40万に対して劉邦軍は10万。明らかに劉邦には勝ち目がありません。

そこで劉邦はなんと、・・・項羽にひたすら謝罪しました。これが【鴻門(こうもん)の会】です。

項羽は劉邦を許すと上機嫌で咸陽へ入城。そして子嬰をはじめ諸公子をことごとく惨殺します。そして宮殿内の財宝を略奪して宮殿を焼き払うなど、暴虐の限りを尽くしたのです。

鴻門の会とは?

劉邦はわずかな兵だけを連れて、鴻門(こうもん)で一席をもうけて項羽に謝罪します。

范増は劉邦の存在が項羽の邪魔になるとして、劉邦の暗殺を企てます。項羽の従弟・項荘(こうそう)に剣舞を行わせ、劉邦を刺殺させようとしたのです。しかしこの作戦は失敗します。

あらかじめ項羽の叔父・項伯(こうはく)から作戦を聞いていた劉邦の軍師・張良(ちょうりょう)は将軍の樊噲(はんかい)を宴席に乱入させます。そして劉邦はその騒ぎに乗じて脱出したのでした。

楚漢戦争

秦が滅亡した後に主導権を握ったのは項羽(こうう)です。項羽は楚の懐王を【義帝(ぎてい)】として奉じ、自らは西楚(せいそ)の地を領土として、彭城(ほうじょう)に都をおきました。

一方、関中(かんちゅう)という要衝の地を劉邦に与えることを危惧した項羽は、関中地域には秦の降将3人を配置するとともに、関中のはずれの地で開発の進んでいなかった巴(は)、蜀(しょく)、漢中の地を劉邦に与えて、漢王としました。

人物領土
項羽西楚
雍王(ようおう)の章邯(しょうかん)関中
塞王(さいおう)の司馬欣(しばきん)関中
翟王(てきおう)の董翳(とうえい)関中
劉邦巴、蜀、漢中、関中

もちろん劉邦はこの処遇に不満を抱きました。そこで前206年5月、劉邦は関中へ侵攻。章邯、司馬欣、董翳を次々と打ち破って関中の地を併合。

その勢いのまま河南王(かなんおう)、西魏王(せいぎおう)、殷王(いんおう)を降して、華北地域に勢力を伸ばしていきました。

この時、項羽は斉(せい)で起きた反乱を鎮圧するために西楚を留守にしていました。前205年5月に項羽が義帝を始末するという暴挙に出て、劉邦には項羽を攻める表向きの理由が出来ます。

劉邦は懐王(義帝)のかたき討ちをするという名目の元、諸王に項羽討伐を指示して、彭城(ほうじょう)に秦軍を開始。ここからが【楚漢戦争】です。

彭城(ほうじょう)の戦い

項羽が斉で手間取っている間に、劉邦の軍は50万余りまで膨れ上がって大軍になっていました。彭城はあっけなく劉邦軍に陥落させます。彭城の財宝や美女を手中に収め、連日連夜のように大宴会を催す浮かれようの劉邦。

一方、彭城を劉邦におとされたと知った項羽は、精鋭の3万の兵を引き連れて大急ぎで彭城に戻ります。劉邦達が酔いつぶれているという情報を入手した項羽は、夜が明けるとともに総攻撃を開始。油断しきっていた劉邦軍を打ち破ります。

この時に負けた劉邦軍の兵士の死骸で、睢水(すいすい)の河の流れがせき止められるほどだったそうです。

劉邦は彭城から逃亡しますが、途中で楚軍に包囲されてしまいます。その時、突然、家屋を吹き飛ばすほどの突風が楚軍を襲い、その隙に劉邦は逃げ出すことに成功。

逃走する途中で偶然にも嫡子(のちの孝恵帝)と長女(魯元公主)と出会います。二人を馬車に乗せて逃げていると楚の追手が迫ってきたので、二人を馬車から突き落として速度を上げようとしますが、従者の夏侯嬰(かこうえい)に三度も阻止されます。劉邦は夏侯嬰に怒り斬りつけようとしますが、逆に諫(いさ)められます。

なんとか追手を振り切って逃げることができた劉邦は、その後、夏侯嬰にとても感謝し彼を重用するようになりました。

金蝉脱穀の計

その後、態勢を立て直した劉邦は、滎陽(けいよう)に陣を置きますが、前204年4月に項羽率いる楚軍に包囲され、またもや絶体絶命の危機。しかし将軍・紀信(きしん)が劉邦に扮して降伏した隙をついて、城から逃げることに成功したのです。

劉邦、強運すぎない?何回目?

これを【金蝉脱穀(きんせんだっこく)の計】と呼びます。

蝉が脱皮する時に、その場には抜け殻を残して飛び立つように、あたかも主力部隊がその場にいると見せかけて、戦場から離脱する作戦です。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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