井陘(せいけい)、垓下(がいか)の戦い。劉邦の家臣・韓信の活躍。項羽の最期はどうなる?

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大軍を率いながらもわずか3万の兵に大敗した劉邦の威信は地に落ちます。劉邦に従っていた諸王の中でも、項羽に寝返るものも少なくありませんでした。

かろうじて命だけは助かった劉邦は、勢力の立て直しを図ります。それに大きな功績を残したのが、丞相(じょうしょう)の簫何(しょうか)と、将軍・韓信(かんしん)です。

関中に滞在して、食料と兵士の補充という後方支援の役割を担っていた簫何は、敗戦後もそれを途絶えさせることない行政手腕を発揮して、劉邦を支えました。

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井陘の戦い

一方、韓信は劉邦の命を受けて西魏王・豹(ひょう)を討つと、さらに北進して代(だい)を制圧。そして趙へと進軍しました。前204年、韓信は3万の兵を率いて井陘口(せいけいこう)の隘路(あいろ)を下り、趙軍20万と待機します。

韓信は井陘口から三十里手前の地点で野営をして、全軍に指令を下しました。まず軽騎兵二千を選抜して彼らに赤旗を持たせ、間道(かんどう)を進んで山に潜み、趙軍が塁壁を空にして出払った隙をついて迅速に塁壁へと侵入。趙の旗を抜いて漢の赤旗を立てるように命じます。

次に韓信は残りの兵を前進させると、河を背にして陣を布きます。

この韓信の動きを見た趙軍は、無謀な布陣を見て嘲笑いました。自ら退路をなくした韓信の行動に、勝利を確信したのです。

そして漢軍が趙軍に向けて突撃を開始すると、趙軍は塁壁から出てこれを迎え撃ちます。両軍はしばらくぶつかり合いますが、漢軍は徐々に退路を余儀なくされます。そしてついには河のほとりの陣に逃げこむのです。

この様子を見た趙軍はチャンスだと思い、全軍を投入しつぶしにかかります。しかし退路を断ち決死の覚悟で戦う漢軍を抑え込めません。とりあえず一旦、自営に戻って態勢を立て直そうとするも、塁壁はすでに漢軍に占拠された後でした。

塁壁に立てられた漢の赤旗を見た趙軍は、指揮官が敵に捕らわれたのだと勘違いし、我先にと戦場から逃げます。こうして趙軍が混乱した隙をついて、韓信は趙軍を打ち破り、趙王・歇(あつ)を捕虜としたのです。

その後の前203年に韓信は斉全土も制圧します。そして劉邦から斉王に任じられます。

このことで項羽は常に韓信の勢力に背後を脅かされることになりました。一旦は項羽によって劣勢を強いられた劉邦でしたが、韓信の活躍のおかげで再び形勢を逆転することに成功したのです。

垓下の戦い

前203年8月、3年に渡り繰り広げられてきた項羽と劉邦の戦いに、1つの区切りがおとずれます。両者ともに長く続く戦いで疲弊していました。

そこで広武山(こうぶさん)で対峙していた項羽と劉邦は、鴻溝(こうこう)を境として西を劉邦が、東を項羽が支配するという和平協定を結びました。

項羽は楚国へ戻り、劉邦も関中に帰還しようとしました。しかし劉邦の参謀である張良(ちょうりょう)と陳平(ちんぺい)がこう進言します。

今こそ楚を滅ぼすときです。項羽に態勢を整える余裕を与えてはいけません!

劉邦は撤退する楚軍を背後から襲撃しました。劉邦が陽夏(ようか)の地まで進んだ時、韓信、彭越(ほうえつ)も合流。前202年12月、とうとう項羽を垓下の地へと追い詰めたのです。

垓下で漢軍に包囲された項羽は完全に孤立しており、兵も少なく食料も底をつきかけていました。張良はそんな項羽に対して、漢軍の兵士に命じて楚国の歌を歌わせたのです。

追い詰められた項羽の耳に聞こえる祖国の歌。「楚はもはや劉邦の手に落ちてしまったのか。」絶望の淵に立たされた項羽は、夜に寵姫(ちょうき)・虞美人(ぐびじん)を伴って陣幕で酒宴を開き、以下のような詩をうたいます。

力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う。時、利あらず、騅(すい)ゆかず。騅ゆかざるいかんすべき。虞や虞やなんじをいかんせん。

(私の力は山を引き抜くほど強く、気力は天下を覆い尽くすほど盛んであった。だが時勢は不利となり、愛馬・騅も前へ進もうとはしなくなった。誰が前へ進まなくなってはいったいどうしたらよいのだろうか。虞よ、私はお前をいったいどうすればよいのだろうか。)

この時、項羽をはじめ臣下の者も皆、涙をこぼしたといいます。(四面楚歌)

項羽の最期

同年12月、項羽は最後の力を振り絞って漢軍の包囲網を突破し、島江(うこう)の渡し場へ行きます。項羽に従うものはわずか20数騎ほどしかいませんでした。

島江から揚子江(ようすこう)を渡れば楚です。島江の亭長(ていちょう)は項羽に船を与えて、揚子江を渡って逃げるように勧めましたが、項羽はこれを断り自らの首を切って自害しました。その時、項羽は32歳でした。

こうして項羽を滅ぼした劉邦は、諸侯に推戴される形で皇帝の位に就きます。ここから前漢王朝の時代が始まるのです。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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