楚漢戦争の後
前202年に項羽を滅ぼした劉邦(こうそ)は、皇帝になって前漢王朝を開きました。高祖は天下を治めるにあたり、楚漢戦争の功労者たちを王として各地に封建します。
国王 | 人物 |
楚王(そおう) | 韓信(かんしん) |
梁王(りょうおう) | 彭越(ほうえつ) |
韓王(かんおう) | 信(しん) |
長沙王(ちょうさおう) | 呉芮(ごぜい) |
淮南王(わいなんおう) | 英布(えいふ) |
燕王(えんおう) | 臧茶(ぞうと) |
趙王(ちょうおう) | 敖(ごう) |
こうして前漢王朝の東半分は諸王たちが支配することになり、残りの西半分は郡国制がしかれ、皇帝の直轄地とされました。
また高祖は国都を長安に定めました。これは長安が肥沃な土地であったことに加えて、水運の便も良くかつ軍事上の要衝として、防衛面でも有利に働くと考えられたためでした。
なお漢の長安城は隋唐代の長安城とは別の都市で、もともと秦の宮殿であったものを改築した城です。
こうして前漢王朝の体制を着実に整えていった高祖でしたが、平穏な日々が訪れたというわけではありませんでした。北方には遊牧民族・匈奴(きょうど)の脅威を抱えていたのです。
匈奴の侵攻
『史記』によると匈奴は中国古代の五帝(ごてい)のうち、堯(ぎょう)や舜(しゅん)により古い時代から存在していたと言われています。北方地域で馬や牛、ヒツジなどの家畜を放牧しながら移動生活を送ってきた民族で、食料や水が不足すれば他国へ侵入して略奪を行っていました。
実際に戦国時代には匈奴と境を接していた燕や趙、秦はたびたび匈奴の侵略を受けています。その進行を防ぐために築かれたのが【万里の長城】です。
前215年の秦の始皇帝の時代、将軍・蒙恬(もうてん)が匈奴を征伐して、オルドス地方から黄河の北へとその勢力を押し返していますが、これで匈奴が沈黙したわけではありませんでした。
前209年に冒頓(ぼくとつ)が匈奴の単于(ぜんう)の座に就くと、中国大陸の混乱の最中に着実に部族統合を成し遂げて勢力を伸ばします。高祖が前漢王朝を樹立する頃には、漢に劣らずの広大な領土を持つまでになっていました。
前201年についに匈奴軍が長城を越え、漢の領土に侵入。馬邑(ばゆう)に攻め寄せると、迎撃してきた韓王・信を降伏させるという事件が起こりました。
これに怒った高祖は前200年、自ら軍を率いて韓王・信の本拠・晋陽(しんよう)に向かいます。難なくこの地を確保した高祖でしたが、匈奴軍が脆弱であると見るや、これを追って北上します。
しかし実はこの時、匈奴軍は精兵をあえて隠して、高祖をおびき寄せる作戦だったのです。この匈奴の謀略にまんまとはまった高祖は、白登山(はくとうさん)で匈奴軍の精鋭に七日間包囲されるという憂(う)きめに合います。しかし陳平(ちんぺい)の贈賄作戦が功を奏し、高祖はなんとか長安へ逃れることができたのです。
匈奴と和約
こうして身をもって匈奴の恐怖を感じた高祖は、匈奴と対峙することの不可能を悟り、以降は匈奴との平和の道を選択するようになりました。
前198年に高祖は匈奴と和約を結びます。その内容は以下の通りです。
「漢と匈奴とは兄弟の関係をむすぶ。」
「漢の公主(こうしゅ)を匈奴に贈って、単于(ぜんう)の妻とする。」
「毎年大量の絹、酒、食料を漢が匈奴に贈呈する。」
以降も外交関係は踏襲(とうしゅう)され、前漢王朝は匈奴とは争わないという姿勢を貫いていきます。
高祖の死と呂后
匈奴と和約を結び、北方の脅威を取り合えずしりぞけた高祖でしたが、それ以外にも問題がありました。諸国に配置した諸王たちの事です。
天下統一後、各地に王を封じた高祖は、彼らがいつしか自分に背くのではないかという疑念を抱くようになっていました。実際に諸王国内部は彼らの自治によって運営されていて、皇帝の手が及ばない部分が沢山ありました。なので彼らがひそかに力を蓄えて、反旗を翻す可能性は十分にあったのです。
前202年7月、高祖の不安が現実のものとなりました。燕王・臧茶(ぞうと)が反乱を起こしたのです。すぐに親征によって鎮圧されましたが、それから高祖による諸王排除の動きが顕著になりました。
前198年には趙王・敖(ごう)の王位を剝奪して列候(れつこう)に落とす。
前196年には楚漢の戦いで最も功績のあった韓信を亡き者に。
同年、韓王・信と梁王・彭越(ほうえつ)を排除。
身の危険を感じ反乱を起こした淮南王・英布を亡き者に。
こうして諸王を次々と排除していった高祖は、その後釜として劉(りゅう)氏一族を配置していき、【劉氏にあらざれば王たるべからず】という原則を定着させていきました。
晩年、保身に走った高祖は前195年5月に崩御します。その跡は呂皇后(りょこうごう)の子で太子の盈(えい)が即位しました。しかし実権を握ったのは呂后です。
彼女は高祖の死後、高祖が寵愛していた戚(せき)夫人を残酷なやり方で亡き者に。(彼女の手足を切断し、眼球をえぐり、耳を潰したといいます…。)さらにはその子である趙王・如意(にょい)を毒で亡き者に。
この母の非道な仕打ちに、孝恵帝(盈)は一年以上も寝込んでしまったそうです。そして母にこう言います。
これは人間のやることではありません。私はあなたのような人間の子として、天下を治めることはできません。
以降は自ら政務を投げ出し、酒色におぼれて23歳という若さで崩御してしまうのでした。
孝恵帝(こうけいてい)の死後、呂后は劉恭(りゅうきょう)と劉弘(りゅうこう)を擁立して、相変わらず思いのままに政事をなしていきます。そして他の劉一族を次々と死に追いやり、代わりに呂一族を諸侯王や列候に封じるなどやりたい放題。
また呂産(りょさん)と呂禄(りょろく)に、南・北軍を統括させて軍事権も一手に担ったのです。
しかし前180年に呂后が亡くなると、呂一族にも陰りが見え始めます。そして各地で反呂の動きが起こり、朱虚侯(しゅきょこう)の劉章(りゅうしょう)や、丞相・陳平、周勃(しゅうぼつ)らが軍を発して呂一族を滅ぼし、朝廷の大権を再び劉氏一族の手へと戻したのです。
司馬遷はこの呂后の時代について、「この時代は天下は安定し、罪人も少なく、農業が盛んで、経済は豊かであった。」と記しています。
呂氏滅亡後、高祖の第4子で代王・劉恒(りゅうこう)が陳平らに擁立されて皇帝の座に就きました。安定した社会を導いた賢帝として名高い文帝(ぶんてい)が誕生したのです。
司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。