匈奴征討に燃えた武帝の生涯。憎き匈奴にはかなわない?

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前141年、呉楚七国の乱を鎮圧して、皇帝による中央集権体制を整えていた景帝が崩御します。その跡を継いだのは16歳の皇太子だった劉徹(りゅうてつ)、第七代武帝(ぶてい)です。

武帝の最大の目的は前漢王朝の版図拡大でしたが、一番大きな障害は北方にいる匈奴の存在でした。

高祖の時代以降、前漢王朝は匈奴に対して和親政策をとってきていましたが、それは表向きで実態は前漢王朝から匈奴に様々な貢物をして、さらには帝室の女性を単于に贈るというものでした。

武帝はこの状況に、なぜ皇帝たる自分が匈奴にペコペコしないといけないのだという不満でいっぱい。そして匈奴を武力で征討することを決めたのです。

目次

馬邑の役

前133年、雁門郡(がんもんぐん)馬邑(ばゆう)の豪族・聶壹(じょういつ)が大行令(たいこうれい)・王恢(おうかい)を通じてある策を上申してきます。

それは匈奴の軍臣(ぐんしん)・単于を馬邑におびき寄せて、その隙をついて討ち取るというものでした。

武帝はこの策にOKを出し、20万にも及ぶ軍を馬邑近くの山あいに潜ませます。しかしこの作戦は単于に察知されて失敗。これが【馬邑の役(えき)】ですね。

この馬邑の役のせいで、漢と匈奴の和親関係は破綻。以降、匈奴は頻繁に万里の長城を越えて、漢の領土への侵攻を繰り返すようになってしまいます。武帝も本腰をいれて匈奴と対峙するようになります。

衛青、霍去病の活躍

武帝による匈奴征討は毎年繰り返され、その主役を務めたのは、武帝の愛妾・衛子夫(えいしふ)の弟である衛青(えいせい)です。

前130年、武帝から車騎(しゃき)将軍に任命された衛青は、匈奴征討で目覚ましい活躍をしてみせます。他の将軍たちが匈奴軍を前に敗戦を喫する中、衛青は斬首・捕虜数百を得る軍港を挙げました。

さらに前128年秋には、騎兵3万を率いて匈奴に侵攻した衛青は数千の首級(しゅきゅう)を挙げます。その翌年には、遼西(りょうせい)・漁陽(ぎょよう)に侵入してきた匈奴軍を撃破!その勢いのままに匈奴軍を追い、秦朝末期から匈奴に占領されていた河南の地(オルドス地方)の奪還に成功し、漢領の朔方郡(さくほうぐん)とします。

前124年、騎兵3万を率いて出撃した衛青は、油断しきっている匈奴の右賢王(うけんおう)軍を襲撃。小王十数人、捕虜1万5千人余り、家畜数十万頭を奪います。 

対匈奴戦において破竹の快進撃をみせる衛青の活躍により、前漢王朝は匈奴の勢力圏を徐々に後退させることに成功します。

前123年にも衛青は匈奴軍を討って大功をあげました。しかしこの時の活躍を最後に、衛青の武に陰りが見え始めます。

そんな衛青の代わりに登場したのが、霍去病(かくきょへい)です。衛青とは叔父・甥の間柄。親戚なんですね。

前123年、当時18歳だった霍去病は、衛青の匈奴征討に付き従い戦場デビュー。本隊を離れて果敢に匈奴軍に突撃した霍去病は、匈奴軍をことごとく打ち破って多数の首級を挙げて、匈奴兵の多くを捕虜とする武功を残しました。

武帝はこの若々しく勇ましい霍去病を心から愛し、前121年には彼を驃騎将軍に取り立てました。武帝の期待を一身に集めた霍去病はそれを裏切らない活躍を見せていきます。

前121年には春と秋の2度に渡り、隴西(ろうせい)から匈奴領西方へ向けて出撃。匈奴軍の右翼を撃破するとともに、そこの警備にあたっていた渾邪王(こんやおう)、及びその配下数万を降伏させて、河西地方の前漢王朝の勢力下に収めることに成功しました。

一方、他の将軍は下記のような感じでした。

郎中令(ろうちゅうれい)・李広(りこう)匈奴軍を打ち破ることに成功するも、多数の犠牲を出した。
博望侯(はくぼうこう)・張騫(ちょうけん)戦場への到着が遅れ、戦いに参加できなかった。

これは霍去病の活躍は目立ちますね。

匈奴征伐の中止と再侵攻

前119年に武帝の命を受けた霍去病は5万騎を率いて、衛青と匈奴の本拠地に侵攻しました。匈奴の左賢王(さけんおう)を討ち破り、ゴビ砂漠に至った霍去病は匈奴の諸王、将軍らを捕らえるとともに匈奴兵7,443人を生け捕りにします。匈奴軍の勢力はこれで3割も減少したといいます。

一方の衛青は伊稚斜地単于(いさちぜんう)率いる本隊とぶつかり、これを打ち破りました。衛青の活躍も見事でしたが、霍去病はそれを上回ったため、都で日に日に霍去病への声援が増し、衛青の名声は徐々に衰えていきます。

しかし霍去病は病にかかり117年、24歳の若さでこの世を去ってしまいます。霍去病の死は武帝の絶望させ、また度重なる外征により前漢王朝の国庫も限界へと追い込まれていきました。

そのため武帝は不本意ながらも匈奴征討を中断する決意をしたのです。

一時中断された匈奴征伐でしたが、商人出身の政治家で武帝の側近だった桑弘羊(そうこうよう)による財政再建策などによって、前漢王朝の財政収入は徐々に増加していきました。

具体的には塩と鉄の専売や国家が物流を管理する均輸法(きんゆほう)の施行を行いました。

前103年、再び軍事費をねん出できるまでに国力が回復したので、武帝は中断していた匈奴征伐の再開を命じます。

14年かけて財政を立て直したんだね。

でも霍去病も衛青も亡くなってしまったよ。

匈奴征討の終焉

そこで武帝が匈奴征伐を任せたのが、浞野侯(さくやこう)・趙破奴(ちょうはぬ)です!前108年に楼蘭(ろうらん)から匈奴勢力を駆逐するとともに、楼蘭王を捕らえて前漢王朝の帰属とした将軍です。

前103年、趙破奴は2万騎を率いて朔方郡から出撃しましたが、匈奴軍に敗北してしまいます。

それでも諦められない武帝は、前99年、今度は李広李(りこうり)に3万の騎兵を率いさせて再び匈奴軍に再挑戦。李広李の妹である李夫人が武帝の寵愛を受け、昌邑哀王(しょうゆうあいおう)を生んだため、李広李は武将として重用されました。

この時、本軍の輜重(しちょう)部隊の長として李広の孫である李陵(りりょう)が任じられます。しかし李陵は武帝に対して以下のように言いました。

私に歩兵5千をお与えいただけましたら、きっと単于(ぜんう)を討ち取ってご覧にいれましょう!

武帝は李陵に5千の兵を与え出撃させます。匈奴領深くに侵攻した李陵は、匈奴兵8万に対して奮戦するも降伏。

自信あり気だったので、勝てるのかと思ったわ!

一方の李広李も匈奴軍を前に大敗。

それでも李夫人の介添えもあり、前97年に李広李は再び主将として匈奴征伐を命じられます。騎兵6万、歩兵7万を率いて出撃。これに加えて、路博徳(ろはくとく)軍1万、韓説(かんえつ)軍3万、公孫敖(こうそんごう)軍4万が加わりましたが、勝利をおさめることは出来ずに終わっています。

21万人でも匈奴軍には勝てないのね。

その後、匈奴の漢領への侵攻が激しくなったので、前90年に武帝の命を受けた李広李は匈奴へ再侵攻。しかし狐鹿姑(ころくこ)単于にぼろ負けして投降。

結局国力の衰退を招くだけで終わったのです。この結果を受けて武帝は、前89年に対外戦争の中止を宣言。国力の回復に尽力することを明らかにしました。

そして前87年に武帝は71年の生涯を終えたのです。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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