魏の動き
桂陵の戦いで趙国を攻めて大敗した魏国は、国力の立て直しのために12年程おとなしくしていましたが、再び外征を開始します。次の標的は韓(かん)です。
なぜ韓を攻めようと思ったかというと、魏国・恵王は会盟を主催して、諸侯に出席をしてほしいと招待をしたのですが、韓はそれを無視したのです。会盟とは覇者が諸侯を招待して盟約を結ぶことなのですが、早く言ってしまえば韓は魏の言うことなんか聞かないよー!いう態度を示したのです。
魏国は偉そうに会盟なんか呼びかけているけど、斉にコテンパンにやられた国のわけで、韓は魏国とではなく斉国と同盟を結ぶことを選んだのです。
韓のこの態度に、魏国の恵王は大激怒します。バカにしおって許さんぞー!と、韓に攻め入る訳です。魏軍の大将はまた同じ龐涓(ほうけん)です。
韓と斉の動き
そして窮地に追い込まれた韓は、またしても斉に救援を要請します。斉国の宣王(せんおう)はまた、自国の田忌と孫臏(そんびん)を派遣します。宣王は、桂陵の戦いで趙に田忌と孫臏を派遣してあげた威王の子どもですね。
魏軍は韓国の都・南鄭(なんてい)を包囲しているわけですが、斉軍はまたしても南鄭ではなく、魏の都・大梁(だいりょう)を目指して進軍します。
これは桂陵の戦いで同じ作戦を使ったので、魏国・龐涓(ほうけん)は二度と同じ作戦には乗らないぞと、急いで軍を戻して魏の大梁を目指している斉軍を退けることに成功します。
でもこれも斉の軍師・孫臏の作戦なんですよね。孫臏は田忌に作戦をこう話します。
魏軍は私たち斉軍を侮っていて、斉の兵士は臆病者だと下に見ている。与えられた条件を利用して、勝利を手に入れてこそ戦上手といえる。
兵法にも「利をむさぼって百里の道を駆け続けるには、たとえ優れた将でも上手くはいかない。五十里の道を利をむさぼって駆け続ける場合、到着するのは兵の半分だ」とある。
斉軍が魏国の領土に入ったら十万人分のカマドを作らせ、その翌日には五万人分、翌々日には三万人分を作らせましょう。
撤退する斉軍を追いかけていくと、斉軍のカマドが日に日に減っていくのを見て、魏軍・龐涓(ほうけん)は勝利を確信します。半分以上の兵士は、こりゃ勝てないな・・・と逃げだしたのだと勘違いをしたのです。
斉軍の兵士を全滅させてやると奮い立った龐涓は、精鋭部隊のみを連れて夢中で追いかけ続けました。この魏軍の動きは斉の軍師・孫臏の元にも逐一、伝えられています。孫臏は魏軍が夕方には馬陵に到着するだろうと読みます。
馬陵とは?
馬陵の戦いが行われた、馬陵という土地は丘陵地帯にあります。道が狭く、また道の両端には鋭い山がそびえ、兵を潜伏させるには絶好の場所でした。
なので斉の軍師・孫臏はこの地で、魏の大将・龐涓にとどめをさせることを選んだのですね。
道の傍らに生えていた大木の幹を削り、【龐涓はこの大木の下に死なん】と書きました。そして道の両端に潜ませた兵1万に対して、松明の明かりが見えたら一斉に射撃するように命じます。
龐涓が馬陵の地まで来て、大木の幹に書かれている文字を読もうと、幹を松明で照らしたその時、大量の矢が魏軍をめがけて飛んできました。魏軍は突然の出来事にパニックになり、挙句の果てに味方同士で戦いだしたのです。
なるほど・・・松明の合図は龐涓のものだったのですね。私はてっきり斉軍の出す合図とばかり思っていました。孫臏はそこまで分かっていたとは恐るべし。
大敗を悟った魏の大将・龐涓は、自ら首をはねて自害を遂げました。「あの小童(こわっぱ)に名を挙げさせてしまったか」と言い残したそうです。
勢いに乗った斉軍は魏軍をことごとく打ち破り、魏の太子・申(しん)を生け捕りにすることに成功しました。こうして孫臏は名軍師として名前が広まったのです。