長平(ちょうへい)の戦い。趙兵40万を生き埋めにした白起の狂気。

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秦の勢いは落ちることなく領土を広げていきました。

その中でも一矢報いたのは趙です。前269年の閼与(あつよ)での戦いでは、趙将・趙奢(ちょうしょ)が秦軍を撃退しました。

趙が秦と並ぶほどの軍事力を持っていた理由のひとつに、六代目の武霊王(ぶれいおう)の時代に【胡服騎射(こふくきしゃ)】という遊牧民族の戦術を積極的に取り入れたことが上げられます。

目次

胡服騎射(こふくきしゃ)とは?

騎兵を主体とした軍は、機動性において他国の軍より優れていました。しかし趙の戦術はすぐに他国でも取り入れられました。特に秦は趙と同じように、遊牧民族のと境界を接していたため、積極的に馬を輸入していきます。

あっという間に趙の優位性は失われ、趙軍が敗北することも多くなっていきました。

戦術に特許が取れたら良かったのにね。

特徴

服装は、馬に騎乗しやすいように短い上着にズボン。弓矢を引きやすいように、袖口が絞られ筒状のもの。靴は荒地などでも駆け回れるように、頑丈な革靴。

馬上でも扱いやすいように短弓を使用。殺傷力を上げるために毒を塗った矢を使うこともあった。

長平の戦い

前262年、秦の将軍・王齕(おうこつ)は、上党郡(じょうとうぐん)を攻略すると長平に侵攻します。

これに対して趙の孝成王(こうせいおう)は老将・廉頗(れんぱ)に長平城を守るように命じました。廉頗は城に土塁を築いて守りを固め、ひらすら城にこもって持久戦に持ち込みます。秦軍は趙軍を引きずり出すために挑発を繰り返しますが、廉頗はこれに応じません。

これが三年続いたといいます。

え、ながっ!

秦の宰相・范睢(はんしょ)は力攻めではなく、廉頗をどうにか追放しようと考えます。趙の孝成王のもとに間者を送り、

「秦が本当に恐れているのは廉頗ではなく、趙奢の子である趙括(ちょうかつ)らしいよ」

という根も葉もないうわさを流しました。

孝成王は三年もの間、決着がつかないことをいらだっていたので、すぐに廉頗を罷免して、趙括を将軍として長平に送り込みました。

趙の将軍が廉頗から趙括にバトンタッチしたことを聞いた、秦国の昭王と范睢は作戦通りと勝利を確信します。そして白起を上勝軍に任命して、長平に送ります。

廉頗の代わりに一軍を率いることになった趙括は、軍吏の配置換えを行いました。自らの力を発揮するチャンスがおとずれて、気合いが入りまくりです。

配置換えを伝え聞いた白起は、趙軍が総攻撃を仕掛けてくることを悟ります。そこで営塁(えいるい)の防御を繁盛にするとともに、別動隊をひそかに埋伏しました。

白起の予想通りの趙軍の総攻撃に対して、白起も正面からぶつかります。しかし少しずつ秦軍は押され、ついには営塁に逃げ戻りました。趙括はこの機会を逃さず、趙軍40万の兵を率いて秦の営塁へ攻撃を仕掛けます。

もちろんこれは白起の罠で、わざと押されているふりをして営塁へおびき寄せたのです。

そして白起は隠していた別動隊に、趙軍の退路をふさがせて挟み撃ちに。さらには騎兵を使って長平城と趙軍の連絡網を遮断させます。

趙括が罠にはめられたと気がついたころにはすでに手遅れです。40日余りにわたって完全に包囲された趙軍は飢餓地獄に陥ります。将の趙括は自ら兵を率いて突破を図るも、あえなく射殺されてしまいます。総大将を失った趙軍に戦う気力はなく、全軍が降伏。

しかし趙軍が降伏したのにも関わらず、彼らの反乱を恐れた白起は、趙兵をすべて生き埋めにしてしまうのです。

趙括(ちょうかつ)はどんな人物?

趙括は幼いころから兵法を学んでおり、自分は最も優れた兵法家であると自信を持っていました。しかし実戦経験は一度も無かったのです。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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