晋を破って【邲(ひつ)の戦い】で覇者となった楚の荘王の足が止まることはありませんでした。
前595年には晋に従う宋の征討に赴き、宋の国都を包囲します。戦いは9か月にも及び、城内では食糧が尽き、子どもを交換して食べあい、死者の骨を薪代わりに燃やすなど凄惨(せいさん)を極めました。
宋陣営に厭戦(えんせん)気分が漂う中、宋の大夫(たいふ)・華元(かげん)は、ひそかに楚の将軍・子反(したん)のもとを訪れて、宋の窮状(きゅうじょう)をありのままに伝え、楚の幕下(ばくか)に入ることを告げました。
するとこれを伝え聞いた楚・荘王は、その誠実な心意気に感じ入り、軍を撤退させたのです。なおこの退陣の裏側には、楚軍の食糧も尽きかけていたという内情もありました。
前591年に荘王はその生涯を終えます。中原に覇を唱えた荘王の偉業をたたえ、後世に成立した史書の多くは彼を【春秋の五覇の一人】としています。
楚と晋
荘王の跡には太子・審(しん)が共王(きょうおう)として即位しました。
一方、楚に大敗してしまった晋でしたが、大国であることに変わりはありませんでした。前589年には【あんの戦い】で斉を打ち破り、北方における主導権を回復しています。
こうして楚と晋という二大強国が他の小国を圧迫する緊張状態は依然として続いていました。しかしそのような日々が続く中で、諸国の間では和平を求める機運が高まっていきます。
こうした状況のなか、前579年に宋の華元が晋と楚の間を取り持ち、ついに不戦条約を締結させることに成功したのです。これで平和な日々が訪れると思いきや、平穏な日々は3年と続きませんでした。
鄢陵の戦い
前576年、楚が鄭と衛に侵攻したことにより、和睦が破られてしまったのです。これによって鄭は晋の側につくのですが、前575年、今度は楚に寝返った鄭に対して、晋の厲公(れいこう)はその背信を戒めるために軍を送ります。
鄭はすぐに楚に援軍を要請。こうして鄢陵(えんりょう)の地で、晋と楚が再び激突することになったのです。
楚の弱点
このとき晋の副将は、楚には6つの付け入る隙があるので勝利出来ると分析しています。
①司馬(しば)・子反と令尹(れいいん)・子重(しじゅう)の両大臣の仲が悪い。
②楚王の親兵は旧家の兵。
③鄭軍の陣容が整っていない。
④蛮夷が陣立てをしていない。
⑤兵家が忌み嫌う晦日(みそか)に布陣。
⑥陣中が騒がしい。
戦いの結末
こうして戦いが始まりますが、晋将・呂錡(りょき)の放った矢が、楚の共王の目に命中して負傷させるなど、戦況は晋軍優位に進みます。
大将の負傷により、楚の士気は下がりますよね。
その夜、共王は翌日の作戦を立てようと子反を呼びます。ところが子反は酒を飲んで酔いつぶれて、共王の前に姿をみせることができません。
共王は天運が尽きてしまったと嘆き、夜のうちに逃げ出してしますのです。
鄢陵(えんりょう)の戦いは晋の大勝に終わり、楚に移っていた覇権は再び晋の元へ戻りました。しかしその後も諸国同志の戦いは繰り返されます。
晋をはじめとした諸国では内乱が度重なり、国力は疲弊する一方。
そのため前546年、晋・楚・宋・魯・鄭・蔡・陳・許・曹・衛の諸国の間に、再び和平の約束がされることになりました。
この和陸のおかげで、少なくともその後の十数年は、平和な時代が訪れたのです。
司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。