春秋時代に覇を唱えた楚の広大な領土を大きく占領するといった空前の勝利を、【柏挙の戦い】で成し得た呉でしたが、いつまでも浮かれてはいられませんでした。
越(えつ)の始まり
越は夏王朝の後裔(こうえい)である無余(むよ)という人物が、会稽(かいけい)の地に封ぜられたことに始まります。
呉と同じく身体に入れ墨をして、髪をざんばらにするという風習がありました。
系図は伝わっていませんが、允常は夏王朝の創始者である禹(う)の20代末裔だと自称しています。
呉と越の戦い
呉王・闔閭(こうりょ)が留守にしている隙をついて、越王・允常(いんじょう)が攻め込んできたのです。
しかし呉王・闔閭(こうりょ)を襲ったのはそれだけではありませんでした。越軍の侵攻に対処するために急いで帰国した夫概(ふがい)がこの混乱に乗じて、勝手に自らが王だと宣言して即位してしまったのです。
兄の留守中に、弟が勝手に即位?!
闔閭は急いで軍を引き返し、勝手に即位した弟・夫概を討ち取ります。そして越軍を呉領から退けて都を奪還したのです。
この出来事は闔閭のプライドを大きく傷つけ、それから越への侵攻が本格的に始まります。
越では前496年、呉領を襲った越王・允常が亡くなり、その子である勾践(こうせん)が即位しました。闔閭は混乱する越国内の情勢をチャンスだと考え、越への侵攻を開始しました。
ところが越軍は奇策で対抗してきました。三列横隊に並ばせた死刑囚を呉軍の前にまで進ませ、一隊ずつ前に出して自分の首をはねさせたのです。
越が死刑囚の家族の保障を約束して、決死の勇士を募りました。どうせ死刑になるのだからと、家族に何か残そうとした者たちだったのでしょう…。
いったい目の前で何が起こっているか理解できない呉軍は、ただ呆然(ぼうぜん)とそれを眺めていました。するとその不意をついて越軍が呉軍を急襲。
なんとか戦場から脱出することができた呉王・闔閭ですが、越軍の攻撃によって指を負傷してしまいます。結局はそのまま亡くなってしまいました。
闔閭の跡を継いだのは次男である夫差(ふさ)です。闔閭は死の直前下記のような遺言を残しました。
勾践(こうせん)がお前の父をあやめたことを忘れるな。
夫差は越を心の底から憎み、3年以内に勾践に復讐することを誓います。また越軍に対抗するために、戦法を歩兵から弓兵主体の陣形に切り替え、昼夜を問わず軍事訓練に励んだのです。
前494年、夫差の復讐の念を知った勾践は、先に呉を滅ぼすべく、呉に向けて進軍を開始しました。
これに対して夫差は精鋭を引き連れて、夫椒(ふしゅく)の地で越軍と対峙。呉軍率いる夫差は見事、越を打ち破って父の仇を取ることに成功したのです。
敗れた越王・勾践(こうせん)は会稽山(かいけいやま)に逃れて立てこもりましたが、恥を忍んで夫差に許しを請い、呉の宰相に金銀財宝の賄賂(わいろ)を贈って、取り成してもらえるように頼みました。
この時、勾践の野心を見抜いた伍子胥は越を滅ぼすように進言しますが、夫差は結局、勾践を許すことにしました。そしてあろうことか、進言した伍子胥に死を命じたのです。
どうしてだろう?賄賂に目がくらんだ?
一説に伍子胥の件は、
越による謀略だったとも伝わっています。
結末
強敵の排除に成功した越王・勾践は、会稽山での恥辱(ちじょく)の復讐をするべく、虎視眈々(こしたんたん)と機会を狙っていました。
そして前473年についに呉を滅亡させたのです。この時の呉王・夫差は、あの世で伍子胥にどんな顔をして会ったらよいのかといい、自害を遂げました。
その後、勾践は徐州(じょしゅう)に諸侯を集めて会盟を行い、周の元王から伯と称することを許されて、中原の覇者として君臨しました。
司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。