40万の兵を生き埋めにした最強の将軍・白起(はくき)は実在した!血に染まった生涯。

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キングダムの6代将軍のひとりと描かれている白起は実在した人物です。降伏した兵を生き埋めにしたという残酷な史実も残っています。

目次

白起の詳細

出生時期やどこで生まれたかは不明です。

白起が史実に初めて登場したのは紀元前294年です。昭襄王(しょうじょうおう)から左庶長(さしょちょう)に任命され、韓を攻めたとあります。

史記では【公孫起】という名前でも呼ばれています。

左庶長とは?

秦と漢で行われていた20歳以上の男性に与えられる、ニ十等爵(にじゅっとうしゃく)という20の官職のひとつ。下級の指揮官

白起の戦歴

・前293年 伊闕(いけつ)の戦いで、韓・魏兵24万人を斬首。

・前273年 華陽の戦いで魏兵13万人を斬首。趙兵2万人を黄河に沈める。

・前265年 韓兵5万人を斬首。

・前260年 長平の戦いで趙兵40万を生き埋めにする。

単純計算でも82万人…

白起の最期

白起は人の心を持たないサイコパスと思いきや、晩年は病と称して隠れておとなしく生活していました。

これにはある理由があったとされます。長平の戦いの後、その勢いのまますぐに邯鄲を攻めるべきだと白起は言いました。

しかし宰相の范雎(はんしょ)が反対します。この反対は白起への嫉妬が理由とかなんとか。

結局、翌年に秦は王齕(おうこつ)に命じて邯鄲を攻めましたが、楚や魏が援軍に駆け付け負けてしまいます。

范雎や昭襄王は白起に総司令の交代を求めますが、白起は戦場に行くことを拒み続け、退却を余儀なくされた戦(いくさ)をみて言ったといいます。

「だから言ったではないか。」

この発言が昭襄王の耳に入ります。もちろん昭襄王は大激怒して、白起を一兵卒に降格させ陰蜜という場所に移住するように命令します。

やはり誰かが王に告げ口したんでしょうね。白起が参戦していたら失わずにすんだ命もあったかもしれません。

しかし白起がヘソを曲げた理由も分かるような気もします。

白起が陰蜜に向かう途中に、昭襄王の使者が剣を白起に届けます。これは自害をするように命じられていることを表しています。

紀元前257年、白起は以下のような趣旨の言葉を言い残して、自害しました。

「なぜ私が自害しなくてはならないのだろう・・・。いや私は長平の戦いで、趙兵の40万人を生き埋めにした。私は死んで当然の大罪をおかしたのだ。天は許してはくださらないのだ。」

たくさんの命を奪ったとはいえ、秦の国のために命をかけて戦った白起。秦の民衆は廟(びょう)という死者を祀る建物を建てて白起を弔ったといいます。

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