晋と楚の二大強国が中原で覇権を争う中、前6世紀半ばになると、江南地方で呉(ご)と越(えつ)という2つの新勢力が登場します。
呉の登場
呉を建国したのは周文王の伯父・太伯(たいはく)だと言われています。
太伯には2人の弟がいましたが、そのうち末弟の王季(おうき)は非常に才能に満ち溢れた人物でした。
太伯は王季に王位を継がせるため、次弟の仲雍(ちゅうよう)と共に国を離れて、南方の荊蛮(けいばん)に赴きます。
長男、次男である太伯と荊蛮の2人は、土地の風習に合わせて同地で髪をざんばらにして身体に入れ墨をいれ、呉(ご)を興したのです。
呉が強い勢力を持ちだしたのは、第19代寿夢(じゅほう)の時代です。寿夢は晋と同盟を結ぶと、頻繁に楚への侵攻を繰り返します。
呉の特色
呉が強国と成ることができたのは、中原諸国とは軍事組織が大きく異なっていたことが大きいと考えられます。
中原諸国では周王朝による封建的身分制度が確立していたため、戦闘員は「士(し)」以上の身分に限定されていました。しかし蛮族の出である呉には身分制度などはなく、一般人がそのまま武装して兵になったのです。そのため戦いに出る兵力数を飛躍的に増やすことが出来ていたのです。
他国は農民は戦わないけど、呉では農民も兵士だったということだね。
また卿(けい)や大夫(たいふ)といった貴族が主に陣頭指揮をとっていた中原諸国とは異なり、呉王自らが陣頭指揮をとっていたことも大きな違いです。
これによって呉軍の士気は、否が応にも上がっていたのです。
前514年、寿夢の孫である闔閭(こうりょ)は王位に就くと、呉はさらにその勢いを増すようになります。
闔閭は兵法に通じていた外国人を積極的に集めました。兵法書『孫子(そんし)』の著者として知られる孫武(そんぶ)や、楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)を採用します。
前512年、ついに楚軍を豫章(よしょう)の地で打ち破ることに成功するのです。闔閭はその勢いのまま、楚の都である郢(えい)にまで攻め込むことを望みます。
しかし孫武が時期尚早(じきしょうそう)であると進言したため、おとなしく軍を引き上げました。
柏挙の戦い
前506年に再び闔閭は、楚への侵攻を開始します。楚の属国なのに楚に不満を抱いていた蔡(さい)と唐(とう)に連携する形での戦いでした。
両軍は漢水(かんすい)を挟んで対峙します。呉軍が3万だったのに対して、楚軍は20万!兵力差では圧倒的に呉軍の不利でしたが、ここで孫武の兵法が登場です。
孫武は楚将・嚢瓦(どうが)を柏挙(はくきょ)へとおびき寄せると、その隙をついて闔閭の弟である夫概(ふがい)が5千の兵を率いて急襲。嚢瓦軍を敗走させることに成功します。
そして嚢瓦軍の敗走を見て動揺する楚軍。闔閭は全軍突撃の命を出し、次々と楚軍を蹴散らしていきます。その勢いのまま、闔閭は楚の都・郢(えい)を包囲しました。
楚の昭王(しょうおう)は、象のしっぽに燃える薪(まき)を縛り付けたものを数頭、呉軍に向けて放ち、呉軍が驚いた隙に城を脱出。雲夢沢(うんぼうたく)へと逃げ延びます。
こうして柏挙の戦いは呉軍の勝利に終わり、闔閭は郢を占領することに成功しました。
このとき伍子胥は、父や兄を亡き者にした楚の先代の平王(へいおう)の墓を暴き、屍を300回鞭(むち)打って積年の恨みを晴らしたと伝わっています。
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