黄帝(軒轅)の誕生は阪泉(はんせん)・涿鹿の戦いから始まった。『史記』の始まりについて詳しく知りたい!

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史記の始まり

『史記』の世界では5人の聖王が治めた時代の記述から始まっています。その筆頭に登場するのが黄帝(こうてい)です。

この頃、中国を統治していたのは、人々に農業を教えた炎帝神農氏(えんていしんのうし)の子孫でした。しかし神農氏の権威は衰えて、各地の諸侯が争いを繰り返して人民を虐げても、それを抑えることが出来ずにいました。

このような乱世の中で、少典(しょうてん)国に生まれたのが黄帝です。姓は公孫(こうそん)、名は軒轅(けんえん)。軒轅は生まれながらにして聡明で、赤ん坊のうちから言葉を発するなど神童としての呼び名が高く、才気にあふれる青年へと成長を遂げます。その風貌は龍のようであり、聖徳があったと言われています。

5人の聖王

ちなみに5人の聖王を簡単に説明しておきますね。

王名本名備考
①黄帝(こうてい)軒轅(けんえん)人類の文明を創造。
②顓頊(せんぎょく)高陽黄帝の孫
③帝嚳(ていこく)高辛黄帝のひ孫
④堯(ぎょう)放勛帝嚳の子
⑤舜(しゅん)重華堯の弟

阪泉の戦い

軒轅は乱れ切った世の中を嘆き、これを治めようと決意しました。そこで戦術を学び、瞬く間にこれを会得すると、朝貢しない諸侯を次々と征討していきます。

やがて諸侯は炎帝神農氏を見限り、軒轅のもとへ集まるようになったのです。さすがに炎帝神農氏は、軒轅に王位を取られるのではないかと恐れを抱くようになります。

炎帝神農氏は諸侯の内で最も暴虐であり、誰の言うことも聞かない蚩尤(しゆう)を利用して、諸侯の切り崩しを図ります。しかし諸侯たちは皆、軒轅を支持。炎帝神農氏は完全に見放されます。

そして軒轅は軍容を整えると食糧を確保して、四方の地勢を把握して戦略を立てます。さらには熊やヒグマなどの猛獣を調教して、戦列に加えたのです。

軒轅軍と炎帝神農氏軍は、阪泉の原野で激突しました。阪泉の位置については、現在の河北省(かほくしょう)涿鹿(たくろく)の東南部、山西省(さんせいしょう)運城塩池(うんじょうえんち)近くなどと諸説あります。

死力を尽くした両軍の戦いはなかなか決着がつかず、3度に渡って激戦が繰り広げられた末に軒轅軍が勝利をおさめます。こうして最大の強敵を討ち下した軒轅でしたが、それでもまだ治安が安定することはありませんでした。

涿鹿の戦い

その後も蚩尤が軒轅に従わず反抗を続けたので、軒轅は蚩尤の征討を決意します。諸侯から軍を召集すると、涿鹿の原野で蚩尤軍と激突。

このとき蚩尤は大霧を生み出し、軒轅軍の視界を遮って戦いを優位に運ぼうとしますが、軒轅は常に南の方角を示す仕掛けを持った指南車(しなんしゃ)を使って、蚩尤軍のいる正確な位置をつかんで、見事に蚩尤を打ち破ります。

こうして軒轅に逆らうものが誰もいなくなり、諸侯は尊敬する軒轅を天子(てんし)として推戴しました。軒轅は黄帝として即位し、ここから黄帝の世が始まったのです。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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