前645年に【韓原(かんげん)の戦い】秦の穆公(ぼくこう)の前に敗れ去った晋の恵公は、前637年に生涯を終えました。
文公の遅すぎる即位
その後、晋王の座に就いたのは。太子・圉(ぎょ)、懐公(かいこう)です。
ところが秦の人質だった懐公は正式な手続きを経て、故国である晋に戻ったわけではありませんでした。勝手に秦から逃亡して、何食わぬ顔で即位したのです。
この懐公の行動に対して、秦の穆公(ぼくこう)は激怒します。恵公からの刺客を避けて亡命していた重耳を擁して、懐公を討ち取ったのです。
こうして19年にも及んで逃亡生活を送っていた重耳は、ようやく故国の地に戻り、晴れて王位に就くことができました。文公(ぶんこう)の誕生です。すでに62歳になっていました。
その翌年、周王朝で内乱が勃発し、北の異民族が介入するという事件が起こります。周の襄王は都を追われ。鄭(てい)へと逃れました。
前635年、文公のもとに襄王からの救援要請が届きます。文公はこれに応じて直ちに軍備を整えて周へ進軍。見事内乱を鎮圧して襄王を都に戻すことに成功しました。
あくまでも周王の家臣としての立場を崩さなかった文公は、襄王から南陽(なんよう)の地を与えられます。南陽は黄河と太行山脈(たいこうさんみゃく)に挟まれた地域であり、交通の要衝(ようしょう)です。
これにより晋は、中原(ちゅうげん)に直接通じる道を手に入れたのです。
城僕の戦い
文公が即位してから4年目の前633年、陳・蔡・鄭・許の諸侯を従えた楚の成王が、宋の国都を包囲し、宋が晋に救援を求めるという事態になりました。
これにより前638年に起こった【泓水(おうすい)の戦い】において、宋は楚に敗北し、楚への臣従(しんじゅう)を余儀なくされています。
宋の成公は急激に勢力を伸ばす晋の文公に近づくことで、この状況を脱しようとしたのですが、それが成王の逆鱗に触れる形となったのです。
宋からの救援要請を受け取った文公は、迷わず援軍を派遣します。
亡命中、保護をしてくれた宋への恩義を感じていたことも大きかったけれど、何よりも楚を退けることで自らが覇者となろうとしたのです。
前632年、文公は全軍を上軍・中軍・下軍の3軍に編成すると、まずは楚の同盟国である曹(そう)と衛(えい)の2国に攻め込み、これを打ち破ります。
そして同盟を結んだ宋・斉・秦連合軍とともに、城僕(じょうぼく)の地で楚に決戦を挑んだのです。
まず晋軍は楚の右翼を打ち崩すと、楚の左翼と対峙している下軍に敗走を偽装させます。この動きにまんまと騙された楚の左翼が下軍を殲滅(せんめつ)しようと追撃してくるのを、上軍と中軍が両側面から挟み、挟撃(きょうげき)して撃破。
楚軍相手に大勝利をおさめたのです。
戦後、文公は践土(せんど)に臨時の王宮を築くと、周の襄王を招いて諸侯と会盟しました。
このとき文公は、楚の捕虜千人や戦利品の戦車百乗を襄公に献上しています。これを喜んだ襄王は、文公を覇者として認め、大輅(たいろ)、彤(とう)弓形矢、虎賁(こほん)三百人などを与えました。
大輅…青銅製の飾り付きの車。
彤弓形矢…朱塗りの弓矢。
以降、春秋時代を通じて晋は中原に覇を唱え続けたのです。
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