邯鄲の戦いで趙・楚・魏の合従軍の前にまさかの敗北をした秦でしたが、それ以降も積極的に外征を行ないました。前256年には東周を滅ぼします。これで前十一世紀以降、勃興した周王朝の歴史が断絶します。
河外の戦い
邯鄲の戦いの際に、魏の安釐王(あんきおう)の命令に背いて、独断で趙の救援に出た信陵君は魏に戻ることが出来ず、そのまま趙に残りました。
貴賤を問わず、賢人と呼ばれた人々に敬意を表した信陵君の元には多数の賢者が集まり、信陵君への期待はますます高まっていきます。そんな状況が続く中、秦国の昭王は信陵君が魏を離れている今が、魏を滅ぼす好機だと考えます。そして魏に対して本格的な侵攻を開始します。
この状況を憂慮した魏の安釐王は、信陵君に戻ってきてほしいと使者を送ります。前247年、ついに信陵君は約10年ぶりに魏国に戻ります。この時、安釐王は泣いて喜んだといいます。そして信陵君に上将軍の印を下し、秦軍への迎撃を命じました。
魏軍を率いることになった信陵君は、圧倒的な軍事力を誇る秦軍と戦うため、自分が将軍になったことを他国に知らせ、救援軍を要請します。人望の厚い信陵君の為に、楚・韓・趙・燕の各国が援軍を派遣、ともに秦と戦うことを誓ったのです。
信陵君すごい…。
こうして5か国合従軍を率いた信陵君は、河外(かがい)の地で秦軍と激突!
この時すでに秦国の昭王はなく、その子供の荘襄王(そうじょうおう)が跡をついでいました。後の始皇帝のお父さんですね。
荘襄王は蒙驁(もうごう)将軍に魏国の侵攻を命じていました。蒙驁は前249年に韓の成皋(せいこう)と滎陽(けいよう)をおとして、前248年には魏の三十七城をおとすなどの活躍を見せていました。
しかし合従軍を率いた信陵君には及びません。兵力で圧倒した信陵君は秦軍を敗走させると、そのまま秦軍を追撃。函谷関で打ち破りました。
信陵君にやられてしまった秦では、信陵君の排除なくしては魏国は落とせないと考えます。そこで魏の領土へ間者を送っては、次のようなデマを流すのです。
魏の国を支配しているのは魏の王ではなく信陵君らしいよ。いずれ信陵君が王になるに違いない。
この噂を信じた魏王の安釐王は信陵君から将軍職を奪って、彼を遠ざけるようになります。
噂って怖いね。そんな話、白起にもあったような…。
このことに衝撃を受けた信陵君は、病気と称して自宅に引きこもり、酒と女に溺れる生活を送るようになります。そして前243年、酒毒のためにこの世を去りました。
また同年には安釐王も亡くなり、その子どもの景閔王(けいびんおう)が即位します。
信陵君はどんな人?
信陵君は謙虚な人格者として戦国時代にその名声をとどろかせました。
貧しかったが賢人として名高かった門番の侯嬴(こうえい)を食客として招くべく、自ら馬車を運転して迎えに行ったり、宴席で迷わず上席に座らせたりと、身分を問わずに低姿勢で賢人を迎え入れようとします。
そんな彼の評判は瞬く間に各国に広まり、信陵君の元には三千人を超える食客が集まったといわれます。晩年は安釐王の誤解から疎まれ、酒におかされて亡くなりますがその名声は死後も変わりませんでした。
前漢王朝を打ち立てた高祖(劉邦)は信陵君を崇拝し、大梁(たいりょう)を通るごとに祭祀を行わせたといわれています。
司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。