周王朝の権威が失墜する一方で、各地方を治める諸侯が勃発し、諸侯間で領土をめぐる紛争が起こるようになります。晋(しん)と秦(しん)の間では、食糧援助を巡る争いが起こっています。
晋(しん)の始まり
晋は周の成王が弟・唐叔虞(とうしゅくぐ)を唐に封じたことに始まります。
その子ども・燮(しょう)の時代に、都を翼(よく)に移し汾水(ふんすい)の支流である晋水(しんすい)にちなんで国の名を晋に改めたと言われています。
晋が強勢を誇るようになったのは、19代献公(けんこう)の時代です。献公は一族のことごとくを誅殺して実権を一手に握り、霍(かく)、耿(こう)、魏(ぎ)、虢(かく)、虞(ぐ)を滅ぼし、山西(さんせい)南部から河西(かさい)西部まで領土を拡張しました。
献公には太子・申生(しんせい)、重耳(ちょうじ)、夷吾(いご)という、3人の息子がいました。
愛妾の罠
しかしその晩年に献公の愛妾である驪姫(りき)が、その子である奚斉(けいせい)を王位に就けようと画策。
驪姫の嘘により、子どもらが自分の命を狙っているのではないかという疑心暗鬼に陥った献公は、太子である申生を自害へと追い込みます。
この父の行動に身の危険を感じた重耳は狄(てき)へ、夷吾は梁(りょう)へとそれぞれ逃げます。
やがて献公が亡くなると、晋の大臣。里克(りこく)は国を守るために奚斉を亡き者に。重耳を新王として迎え入れようとしました。
しかし重耳はこれを拒んだため、里克は夷吾を迎え新王とします。恵公(けいこう)の誕生です。この時、夷吾は姉の夫である秦の穆公(ぼくこう)を頼り、河西の地を献上することを条件として秦の一軍を借りています。
こうして無事に王位に就いた恵公でしたが、やがて里克が重耳を擁して反乱を起こすのではないかと考えます。そこで先んじて里克を亡き者にし、重耳にも刺客を差し向けるのです。
晋と秦
前647年、立て続けに及ぶ凶作が原因で晋を大飢饉(だいききん)が襲ったため、恵公は穆公に食糧の救援を要請しました。恵公が秦との約束を無かったことにして、河西の地を献上しなかったにも関わらず、穆公は大量の食糧を晋へと届けさせました。
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その翌年、今度は秦が飢餓に陥り、穆公は恵公に食糧の救援を頼みましたが、恵公はこれに応じませんでした。それどころか前645年に秦へ攻め込んだのです。
韓原の戦い
恩を仇(あだ)で返され激怒した秦の穆公(ぼくこう)は、自ら軍を率いて出撃。同年9月に両軍は韓原(かんげん)の地でぶつかり合いました。
一気に勝負をつけようと考えた恵公は、自ら先陣を切って秦軍へ突撃を試みましたが、連日降り続いた雨でぬかるんだ地面に、馬の脚をとられて身動きが取れなくなってしまいます。
そこにチャンスと穆公が襲い掛かりますが、恵公を仕留めることができずに逆に晋軍に包囲されてしまう始末。絶体絶命の危機と思いきや、そこに決死の一軍が晋軍に突撃し、穆公を救い出します。
窮地を脱した穆公はすぐに反撃に転じて、ついに恵公を生け捕りにすることに成功するのです。
凱旋(がいせん)した穆公は、恵公を犠牲に捧げて祖先の祭祀(さいし)を行うことを国中に布告(ふこく)しました。しかし周の襄王(じょうおう)、恵公の姉である穆公の夫人が必死に恵公の命乞いをしてきたため、穆公は恵公を許して帰国させました。
さすがの恵公もこれには多大な恩を感じたのでしょう。帰国するとすぐに穆公に河西の地を献上し、さらには太子・圉(ぎょ)を人質として差し出しました。
こうして秦の領土は黄河にまで達し、秦は西北の雄として確固たる地位を固めていったのです。
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