馬陵の戦いで魏国が斉国に敗北した頃、西方では秦国が力をつけてきていました。
秦国の孝公(こうこう)の時代に登用された法家・商鞅(しょうおう)による富国強兵策が実を結び、一大強国となりました。
商鞅はもともと魏国に仕えていましたが、魏の恵王は彼を重用しませんでした。商鞅は魏を見限り秦へ流れたのです。商鞅と同じように魏には優れた人材が集まっていたにも関わらず、ほとんどが他国へ流れました。後から考えれば魏の滅亡はここにも要因があるのかもしれませんね。
戦いに至る経緯
前340年、斉国に敗北したばかりの魏国を攻め、それから魏は滅んだ国の道を歩むことに。
なにせ秦は軍事力もつき強かったんです。これは普通に戦っても勝てないぞ・・・、でも早く国力を削がないともっと強くなるかもと、他の諸国は協力して秦国に対抗しようと同盟みたいなものを結びます。これを【合従(がっしょう)】といいます。
前333年、韓・魏・趙・斉・燕・楚の六か国同盟が成立すると、秦は12年間、軍事行動は起こさなかったという実績がありました。遊説家・蘇秦(そしん)が取りまとめに活躍しました。
前318年、今回が2度目の合掌軍の成立というわけです。この合掌軍を組織したのは、縦横家・公孫衍(こうそんえん)という人物です。
対して秦国は、縦横家・張儀(ちょうぎ)の連衡策を推進します。
連衡策とはそれぞれの諸国と別々に同盟を結び、諸国間の同盟を解消しようとする動きです。魏国を孤立させて、秦に服従させるのが目的だったと言われています。しかしこの動きを諸国は警戒します。
なんか怖いですよね。明日は我が国かもしれませんし。それで再び、公孫衍(こうそんえん)の合掌策を指示し、前318年に合掌軍は秦国に向けて侵攻を開始することになるのです。
韓・魏・趙・燕・楚の5国が突撃。出兵が遅れた斉。取りまとめたのは楚の懐王(かいおう)です。秦の都・咸陽に攻め込むべく、函谷関へ入った合従軍でしたが、秦の力の方が圧倒的に強かったのです。
秦国の恵文王の弟である樗里疾(ちょりしつ)を前に、合従軍はあっという間に負けて退却することになります。合従軍は8万2千人もの兵士がやられてしまう事態になりました。
実質、秦 VS 5国ですごく不利に見えながら、秦はとびぬけて強かったんですね。
函谷関(かんこくかん)
函谷関は前361年に、秦の孝公(こうこう)が築いた関所です。頑丈な要塞として名高く、ここを舞台として様々な戦いが繰り広げられます。交通の要衝にも位置していて、秦国にとっては東からの諸国の侵攻も防いでいました。
張儀(ちょうぎ)
縦横家として名高い張儀はもともと魏国の出身です。斉国で蘇秦と一緒に縦横の術を学びました。
後に秦国の恵文王に仕えていた張儀は、蘇秦の合従策に対して連衡策を展開し、他6か国それぞれと同盟を結んで合従策を打ち破ろうとしました。
連衡策を無事まとめあげた張儀でしたが、秦国に戻ると恵文王は亡くなり武王が即位します。武王は張儀をよく思っていなかったので、張儀は失脚後、病に倒れて亡くなってしまいました。
せっかく手柄を挙げたのに、王が変わると簡単に失脚していしまうんですね…。