邯鄲の戦い
趙の軍を生き埋めにした長平の戦いの後も白起の勢いは止まりません。趙をこのまま滅亡させるチャンスだと感じた白起は、そのまま軍を進めて趙の国都・邯鄲(かんたん)に向かいます。
趙国の動き
趙王はこのままでは本当に国が滅びてしまうと、和議を結ぼうと試みます。蘇秦(そしん)の弟である蘇代(そだい)を使者として秦に派遣します。
手厚い贈り物とともに秦の宰相・范雎(はんしょ)のもとに向かっていた蘇代は考えました。
ただ懇願するだけでは和議にならないのでは?
そこで蘇代は范雎の心をあおるようにこう言います。
もし白起が邯鄲を落とすようなことになったら、その大きな功績から立場も最高位にのぼりつめるでしょう。そうなれば范雎さまも、白起の下に置かれることになります。それが秦国にとってプラスになるか否か…。
范雎は蘇代の言葉に不安を感じます。確かにもし白起が范雎の上に立つようなことがあれば、范雎の地位はいつ切られてもおかしくない立場に追い込まれます。それは困る。
そこで范雎は昭王を説得して、軍の疲弊を理由として趙国と和議を結び、兵を引き上げさせました。
秦の動き
この命令を聞いた白起は激怒します。せっかくのチャンスだったのでそれは怒るでしょうね。そして秦に戻ると病と称して出仕を拒むようになりました。
前259年、再び秦国は趙国への侵攻を開始します。将の王陵(おうりょう)は邯鄲を包囲しますが、趙軍の反撃を受けて5つの陣営を失ってしまいます。
この報告にいらだった昭王は、白起に戦いの指揮をとるように命じましたが、白起はこれを拒否します。そしてこういいます。
邯鄲を攻略するのは簡単なことではありません。長平の戦いの戦いで勝ったとはいえ秦軍の犠牲者も多数出ていて、趙国がしっかりと守りを固めて、さらに他国が応戦すれば我が国は敗れ去るでしょう。
昭王直々の命令だったにも関わらず白起が動かなかったため、やむを得ず王陵にかえて王齕(おうこつ)に大将を命じて、邯鄲を攻めさせました。
戦いの結末
一方、趙王は宰相・平原君(へいげんくん)を使者として、魏と楚に援軍を要請しました。楚はこれに応じて春申君(しゅうしんくん)を将として援軍を派遣。
魏では秦の恫喝の前に魏王が援軍を送らなかったため、信陵君(しんりょうくん)が王の割符を偽造して軍の指揮権を得ると、自分の一存で趙の救援に向かいました。しかし秦の激しい攻撃にさらされた邯鄲は、すでに陥落寸前でした。このままでは援軍が来るまで持ちこたえることが出来ない。
そこに宿駅の長の子である李同(りどう)が平原君にこう進言しました。
いま邯鄲の城内では子供を交換して食らうほど、追い詰められています。殿の婦人方を兵卒とともに働かせて、お屋敷に蓄えられている品々を全て放出して兵卒たちにお与えなされば、きっと彼らはこのことに恩を感じ、命を投げ打って働くものが得られるでしょう。
平原君はさっそく実行に移して、決死の兵を募ったところ三千人の兵がこれに応じました。李同は決死の覚悟の兵三千人を従えて、玉砕覚悟で秦軍へ突撃していきました。
秦軍はこれを抑え込むことが出来ずに、三十里ほど陣を退くことを余儀なくされます。そうこうするうちに、楚の春申君、魏の信陵君の援軍が到着。両軍の攻撃の前に大損失を被った秦軍は邯鄲の包囲を解いて、帰還せざるを得なくなりました。
こうして趙は窮地を脱することが出来たのです。
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