前403年に晋国が趙・韓・魏の三国に分裂したのを境に、弱い国は強い国に次々と淘汰されていく戦国の乱世に突入します。その中でも勝ち残ったのは、戦国の七雄(しちゆう)と呼ばれる趙・韓・魏・斉・燕・楚・秦の国々です。
桂陵の戦いは結論からいえば、魏が趙を攻めたけど、斉が趙を助けたよ!という話です。アニメのキングダムには出てきません。
とはいえ、攻めようと思った理由とか、登場人物とか、なぜ斉が出てきたかとか、物語には起承転結があるので順に説明していきたいと思います。細かい経緯も知りたいという方は、是非お付き合いください。
戦いの流れ
戦国の七雄のなかで、まず動き始めたのが魏(ぎ)国です。
軍師の孫臏は魏のすきをついて国都・大梁を攻めれば、邯鄲の包囲は解けるのではと助言します。
戦いの結果は斉の大勝利に終わります。イコール趙国の勝ちですね!
魏の動き
前370年魏国三代・恵王(けいおう)は、兄との後継者争いに勝って、王に即位しました。祖父と父に仕えた兵法家の呉起(ごき)の「武卒制」を再開させて、軍事力の強化に努めます。
魏国の恵王は晋国が三国に分かれた後、独立国として中華全土に君臨することを志したのです。とりあえずは前までは晋で同じ国だった、隣国の趙国を統一してやろうと目をつけました。
前353年に恵王の命令を受けた将軍・龐涓(ほうけん)は、趙国への進軍を開始。趙の都の邯鄲(かんたん)を包囲します。
武卒制とは?
条件をクリアしないと兵士になれないという、厳しい入隊制度のことです。
- 兜をかぶって重い鎧(よろい)を身につける。
- 銅剣を腰にさす。
- 50本の矢が入ったものを背負う。
- 3日分の食料を持つ。
この状態で明け方から正午までに約百里(約40㎞)を走ることができたら合格!超過酷・・・。
兵隊になることができたら、自分の家族の税が免除されたり、土地やお家が支給されたりと優遇されます。それは皆、必死で鍛錬しますよね。そんな鍛錬された兵士で組織された軍のいる魏国は、諸国の中でも強大な国力を持つことができました。
趙の動き
魏国の標的になってしまった趙国。邯鄲を包囲され、どうしようもなくなった魏国は斉国へ救援の要請をします。斉国の威王(いおう)はこれに応じます。魏と斉ってまあまあコミュニケーションが取れていたということでしょうか・・・。
斉の援護
ここからは実質、魏国 VS 斉国 の戦いになります。斉国の威王は自国の将軍・田忌(でんき)と、軍師・孫臏(そんびん)を魏国に派遣します。
軍師・孫臏の作戦はこんな感じ。
敵の魏国の精鋭部隊は皆、趙国の都・邯鄲に攻めるために出払っている。魏国の都の大梁(だいりょう)を攻めるように見せかければ、急いで戻ってくるだろう。そうすれば邯鄲の包囲も解けるし、魏国兵も疲れる。
魏軍は戻ってくるとき、必ず桂陵の地を通るはず。待ち伏せして一気にやつけちゃおう!
おー、ファンタスティック!!
西国将軍・田忌は作戦通り、全軍を率いて大梁に向かうと見せかけながら進軍。桂陵の地で魏軍を待ち伏せします。
一方、斉国が自分の国の都に攻め込もうとしていると聞いた、魏国の将軍・龐涓(ほうけん)は焦ります。だって女や子供、老人など弱者しか都には残ってないですからね。
龐涓はすぐに邯鄲の包囲を解き、兵を連れて昼夜休まず大梁へ引き返します。斉国の予想通り桂陵を経由するルートで戻ってきました。桂陵にさしかかった時には魏軍はもうへとへと。そこを斉軍が襲い掛かって、魏軍は何の抵抗もできずに総崩れ。
将軍・龐涓はなんとか逃げ帰ることができましたが、こうして桂陵の戦いは斉軍の大勝利に終わったのです。
名軍師・孫臏(そんびん)
この桂陵の戦いは、斉の軍師・孫臏の作戦勝ちでしょう。孫臏とは一体どのような人物だったのでしょう。
孫武の子孫であり、同様に優れた兵法家として活躍しました。著書には『孫臏兵法』が知られています。馬陵の戦いでも大活躍して、名軍師の名を中華に知らしめます。馬陵の戦いも要チェック!!
お話は馬陵の戦い編に続きます。