黄巾の乱が黄色なのはなぜ?張角はなぜ乱を起こし、歴史はどのように変わっていったのか。

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184年に起こった黄巾の乱は、太平道の教主である張角が農民たちを率いて打倒・後漢王朝のために戦った大きな反乱です。

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トレードマークの黄色

黄巾の乱の『黄』は、戦国時代にうまれた五行思想(ごひょうしそう)に基づいています。五行思想とはこの宇宙は木・火・土・金・水の5つの要素の循環によってつくられているという考え方です。

五行思想の循環的革命理論によると後漢の王朝は火の徳でできたものであり、この火が衰えると土の徳でできた王朝になります。

火の徳は赤で、土の徳は黄色です。

黄色い布を首に巻き付け、黄旗を掲げることによって、徳を失った後漢王朝を倒して新しい王朝をつくるために戦ったのです。

太平道の張角

結論からいうと太平道とは、呪術的な方法で病気を治療したり、人々に善道を説く宗教です。張角は教祖のもとで修業したその当時の教主です。

山東省に住む于吉(うきつ)という男が、呪符と呪水で病気の治療に当たっていました。これが効果があるとされ、彼のもとに熱心な信者がどんどんと集まってできたのが太平道の始まりです。

信者で病を見てもらう時には、自分の犯した罪を懺悔することが求められます。罪の懺悔で結ばれた信仰集団は強い連帯感を持つようになるのです。

その当時の教主であった張角は、数十万の信者と共に三十六方と言われる宗教組織を作り上げました。その大部分は下層農民です。

184年の意味

西暦184年に黄巾の乱が起こったわけですが、この年にも意味があります。

184年は後漢の霊帝の光和7年、甲子(こうし)の年とも表記されます。日本の平成や令和のようなものですね。干支で一番最初に位置します。

昔から中国では甲子の年は革命が起こる年だと信じられてきました。

太平道の教主である張角は、

「蒼天すでに死せり、黄天まさに立つべし」という言葉にに続いて、「歳は甲子にあり、天下は大吉」と句を付け加え、36万の農民信者へ革命を導こうとします。決行の日も旧暦の3月5日と決まっていました。

しかし1月下旬に、洛陽に潜入していた太平道の幹部である馬元義(ばげんぎ)が捕らえられてしまいました。張角は予定を早めて決行します。

事の成り行き

飢えていた農民集団が大部分を支える、張角率いる太平道に属する信仰結社が世直しを目的として起こしたのが黄巾の乱です。

彼らは首に黄色の布を巻き、黄色の旗を立てて戦いました。決起の号令から10日ほどで黄巾軍は全国各地の官府を焼き払います。

しかし洛陽では捕らえられた馬元義が公衆の面前で車裂きの処刑に合います。

政府は何進(かしん)を大将軍にして洛陽の警備に当たらせます。そして皇甫崇(こうほすう)を佐中郎将に、朱儁(しゅしゅん)を右中郎将に任命して、黄巾軍の鎮圧に向かわせました。各地の豪族の力も借りて協力しました。

5月ごろに根拠地のきょ鹿(ろく)を追われた黄巾軍は広宗(こうそう)に移りましたが、10月には鎮圧され張角が病死したこともあり、11月に入ると黄巾軍の主力は壊滅状態でした。

黄巾軍の各地で10年もの間、後漢王朝を揺さぶり続けます。これに対応する各地の豪族たちが地方の分権化を進めていき、後漢王朝は失墜していくのです。

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