アニメKINGDOM(キングダム)に登場する呂不韋は、実在した人物です。嫪毐(ろうあい)の乱の黒幕として描かれていますが、史実では呂不韋と嫪毐が結託していた可能性は低いのでは?とも考えられています。真実は当人たちにしか分からないのです。
人物像
秦から始皇帝が誕生するにあたり、呂不韋の存在は必要不可欠なキーパーソンです。
『史記』によれば、韓の出身で商人だった。『戦国策』では衛の出身とされています。
呂不韋は少年時代、商人が背を丸くして腰を低くし、卑屈な態度で客と接するのはなぜかと疑問に思いました。呂不韋はその理由が「商人は天を仰いでないからだ」と感じ、「自分は背を伸ばして生きていく。そのためには偉くならなくては!」と考えたと言います。
へこへこしている親を見るのも、自分がそうなるのも悔しかったのでしょうか。少しわかる気もします。聡明で野心の強い少年だったのでしょう。
戦国時代という戦時を利用して、韓・趙・衛を拠点とし軍事物資を仕入れては、それを必要とする国へ高値で売りさばき巨万の富を築き上げました。
始皇帝の父との出会い
紀元前265年、呂不韋は趙の邯鄲で趙の人質として、秦から連れてこられた公子を手に入れます。公子は秦の太子・安国君(あんこくくん)の子どもです。
呂不韋は公子を一目見るなり、「奇貨居くべし」と言います。(これは珍しい商品なので買っておくべきという意味)持っておけばいずれ、利用価値があると考えたのです。
財力にものを言わせ秦国公子を趙から脱出させることに成功し、名を子楚と変えさせます。呂不韋は安国君の正妻である華陽婦人に接近し、安国君と他の妃の子である子楚を養子にするよう斡旋します。
華陽婦人は子ができず、このままでは自分の立場が危ういと考えていたので、呂不韋の提案に乗ることに決め、子楚を養子とします。安国君もこれに賛成し、子楚は彼の後継者となったわけです。
父の安国君が孝文王(こうぶんおう)として即位すると子楚は太子となり、孝文王が崩御するとなんと呂不韋の目論見通り、子楚は秦国の王・荘襄王になるわけです。
前249年、呂不韋は秦の文官としては最高権力者である相邦(しょうほう)のポストに就任します。
荘襄王も崩御するとその子の趙政が王に即位、これが後の始皇帝です。この頃の呂不韋は相邦の地位に加えて、仲父(ちゅうほ)という称号も与えられます。どのくらい偉いかというと、王の父親に匹敵するほどの権力がありました。
兵馬俑1号坑から発見された、戟(げき)という武器には呂不韋の名前が刻まれています。武器の製造は国家事業であり、呂不韋が国の政治における最高責任者という地位に、君臨していたことを示しているのです。
秦の宰相となり、権力者となった呂不韋は一万人もの召使を抱えるほどになり、三千人もの食客が彼の元に集まりました。食客とは最低限の衣食住を与えられる代わりに、主人に服従を示すいわばお抱え家来ですね。
呂氏春秋を編成
引用元:TVアニメ「キングダム」公式サイト
前239年に多くの知識人を集めて、『呂氏春秋』という百科事典のような書物を完成させました。これは呂不韋の功績のひとつです。
書物の出来栄えに気を良くした呂不韋は、街の中心にこれを置いてあらゆる人の目に留まるようにし、こう言いました。
テレビアニメの中では上の絵のように、木の板が並べられています。なるほど、このように掲げて公開したのですね。
「この書物から一時でも減らすか増やすか出来る者がおれば、その者には千金を与える。」
すごい自信ですね・・・。
この出来事が四字熟語「一字千金」の由来になりました。一文字が千金にも値するほど立派な文章であることを意味しています。
最期
呂不韋は嫪毐(ろうあい)の乱の黒幕として、隠居を命じられますが爵位も領地もそのままでした。功績が大きすぎたため、公に厳罰な処罰を与えることは難しかったようです。
しかし彼の元を訪れる者は絶えず、呂不韋の影響力が衰えることはありませんでした。呂不韋が敵国と反乱を起こす可能性を恐れた秦王・政は、呂不韋を西のへき地である蜀(しょく)に移るように命じます。
いずれ秦王に処分されるのだろうと悟った呂不韋は、蜀には行かず毒をのみ自害しました。