西で秦国が圧倒的に強かった中、東では斉国が着実に国力を強めていました。
四代目・宣王(せんおう)の時代には魏国を馬陵の戦いで打ち破り、三晋の地を平定しています。その宣王が次に矛先を向けたのは、北にある小国・燕(えん)です。
戦いの経緯
燕国では国内で内紛が勃発していました。宰相・子之(しし)が燕王を差し置いて実権を握ると、これに反発した太子・平(へい)が子之を罪人にして殺めようと画策し、将軍・子被(しひ)と兵を挙げます。内戦は数か月の間おこなわれ、数万人を超える死者を出していました。
なるほど、これは斉国からしたら攻め時ですね。
前313年、斉国はこの機に乗じてもちろん出兵。そして普通に燕国はやられて、燕王は亡くなり、太子の平は亡命しました。こうして燕国は斉国の支配下に置かれるようになります。
それから2年後の前311年、亡命していた燕国の太子・平は旧臣たちに守られ、ようやく燕国の地に戻ることが叶いました。そして燕王として即位します。名は昭王(しょうおう)と名乗ります。
斉国を深く恨んでいた昭王は、壊滅状態にあった燕国を立て直すために、諸国から優秀な人材を集めようとします。昭王は郭隗の真言により、広く人材を多方面から募集しました。この時、燕国に来たのが猛将として名高い楽毅(がくき)です。
斉では宣王の後継者の湣王(びんおう)が即位していました。湣王は積極的に軍事遠征をおこない、楚・韓・魏・趙に打ち勝ち領土を広げていました。
郭隗(かくかい)の役割
燕国・昭王が優秀な人材を集めたいと思った時に相談した相手が郭隗です。当時、賢人として有名だった郭隗は、「まず、隗より始めよ。」と言ったそうです。
続いて、「優秀な人材を得たいとおっしゃるのであれば、私を始めに重要することです。私程度の者でも厚遇されているのを天下の士が知れば、私以上の実力を持った者が自然と集まってくるでしょう。」と言いました。
なるほど…自分を下げるような上げるような発言。郭隗、なかなかの策士。
昭王はこの意見を受け入れ、郭隗の為に宮殿を築いて師とします。この話を聞きつけた諸国の者は働き場所を求め、昭王のもとを訪れるようになりました。
郭隗の作戦通りです。キーパーソンの楽毅が燕に来て活躍できたのも、郭隗の進言あってのことだったのに違いありません。
済水西の戦い
燕国・昭王はどうしたら斉国に打ち勝てるか、楽毅に意見を聞いてみました。すると楽毅はこう言ったと言われています。「斉は領土が広くて人口も多い。我が国が単独で攻めても倒せないでしょう。しかしどうしても討ちたいと言うなら、趙・楚・魏の諸国と手を結んで攻めるべきです。」
そして楽毅は自ら各国へ出向いて、各王を説得してまわります。まわった各国も、斉の軍事拡大に脅威を感じていて賛同をえました。
こうして趙・韓・楚・魏・燕の5か国合従軍が結成され、楽毅に指揮官が任せられたのです。
前284年、楽毅が率いる5ヶ国の合従軍は斉国に向けて進軍を開始します。済水西の地で斉国と合従軍は戦います。これが済水西の戦いと呼ばれます。結果は合従軍の圧勝!燕国以外の各国はこれに満足して、ここで兵を引き上げました。
楽毅のさらなる動き
しかし楽毅は燕軍を率いて、その足で斉国の都・臨淄(りんし)を攻めて攻略します。そこで奪った宝物などをほとんど燕国へ送り、昭王を大変喜ばせました。
ここで終わりと思いきや、楽毅は軍を5つに分けて斉国の領土をどんどん攻め落としていきます。そうして5年の間に70以上の城を攻略し、残りの城は莒(きょ)と即墨(そくぼく)のみになります。斉国は燕国の楽毅によって、滅亡寸前にまで追い込まれるのです。
楽毅はその活躍により、昌国に任命されます。
燕国にとっては頼もしい限りの楽毅ですが、敵国からすると恐ろしすぎる存在ですね・・・。
司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。