62歳で即位した文公の時代に覇者曾として君臨し、周辺諸国に大変な影響を与え続けてきた晋(しん)でしたが、前573年に文公の曾孫にあたる厲公(れいこう)が、家臣によって亡き者にされるという悲劇が起こると、国内では国王より有力貴族が権力を握るようになっていきます。
晋の六卿と四氏
中でも勢力を伸ばしたのが県大夫(けんたいふ)、県の長官です。
晋は他国を滅ぼして拡大した領土を治めるために、有力貴族を県大夫として派遣しました。彼らは領有した土地から上がる収益をもとに着実に力を蓄えていき、県を世襲的に支配して勢力の基盤としました。
とくに強勢を誇ったのは、韓氏・魏氏・趙氏・范(はん)氏・中行(ちゅうぎょう)氏・智(ち)氏の六卿(けい)です。彼らは晋王室をないがしろにして、晋国内を支配していきます。
やがて六卿の間でも勢力争いが繰り広げられるようになります。
464年には智伯(ちはく)、韓康子(かんこうし)、魏桓子(ぎかんし)、趙襄子(ちょうじょうし)の4人の重臣が、范氏と中行氏を滅ぼして、両氏の所領を分割してそれぞれ領有します。
その時の晋王・出公(しゅつこう)は彼らの専横(せんおう)に我慢が出来ず、斉と魯に救援を要請して四氏を征討しようとしますが、逆に返り討ちに合い、斉への亡命を余儀なくされました。
以降は晋王は形式だけの存在になり、ここに晋王朝の権威は完全に失墜しました。
その後、四氏の勢力争いはさらに激化していきます。四氏のうち最も勢力が強かったのは智氏でした。智氏の首長(しゅちょう)である智伯は、出公に代わって哀公(あいこう)を即位させると、思いのままに政権を操っていきます。
そして晋領の全てを治めようと、他の三氏を恫喝して領土の割譲(かつじょう)を迫りました。韓氏と魏氏は智氏を恐れて領土を差し出して服従を誓いますが、趙氏の首長・趙襄王はこれを拒みます。
この趙襄氏の態度に智伯は激怒して、前455年に韓氏と魏氏を率いて、趙氏が籠る晋陽(しんよう)城を包囲。一気に城を落とそうとしましたが、晋陽城の守りは固く戦いは難航。
そこで智伯は力攻めをあきらめ、晋陽城の近郊を流れる水をせき止めて城を水攻めにします。晋陽城は水没し、人々は高所や木の上での生活を余儀なくされますが、それでも3年間持ちこたえたのです。
しかし城内の食糧が尽き、いよいよもう無理なのかという雰囲気になった時、趙の軍師・張孟談(ちょうもうだん)が一計を案じます。
ひそかに城を脱出して韓康子と魏桓子に会い、故事を用いて説得しました。
「唇亡(くちびるほろ)ぶれば歯寒(はさむ)し。」
一方が滅べば他方も成り立たなくなる関係のこと。
趙が滅びれば魏と韓も同じ運命をたどるという趙の軍師・張孟談の説得に、納得した韓康子と魏桓子は、智伯を裏切り趙側につくことを決めます。
前453年、夜陰(やいん)に乗じて趙軍の決死の兵が堰(せき)を破壊すると、城内にたまっていた水が凄まじい勢いで智伯軍に襲い掛かります。智伯軍の隙をついて城から討って出た趙氏軍が急襲。さらにそこに韓氏軍と魏氏軍が両サイドから攻撃。
智伯軍は瞬く間に総崩れとなり敗走。智伯は討ち取られ、こうして晋陽の戦いは終わったのです。
その後、勝利をおさめた三氏は智氏の領土を分け合い、実質的に晋は三分割されました。そして前403年、周の威列王(いれつおう)によって三家は独立した諸侯として認められるのです。
ここから戦国時代の始まりです。
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