皇帝中心の中央集権国家を目指した結果おこった呉楚七国(ごそしちこく)の乱。

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前漢王朝五代皇帝として即位した文帝は、民生の安定を念頭に置いた政治を展開していきました。田租(でんそ)を減免して農業を奨励し、国力の増強を図っていきます。

こうして内政に重きを置き、人民のための政治を行った文帝でしたが国内では大きな課題を抱えていました。一番の問題は諸侯王の問題です。

目次

中央集権国家を目指して

彼らは与えられた封地の中で徴税や産物の製造販売、貨幣の鋳造、相国(しょうこく)以外の官吏を任命する権利を、それぞれが独自に有していました。そのため次第にその勢力は増大化していき、中央が地方を制御できない状態に陥ってしまっていたのです。

実際に前177年には、封地に不満を抱く済北王(さいほくおう)の劉興居(りゅうこうきょ)が反乱を起こしました。この乱は済北王の敗北に終わったので事なきを得ました。

皇帝を中心とした強固な中央集権体制国家を築くには、どうしても諸侯王の勢力を削ぐ必要があったのです。この諸侯王勢力抑制政策が本格化したのは、文帝の跡を継いで即位した景帝(けいてい)の時代になります。

皇太子時代から側近として仕えていた鼂錯(ちょうそ)は景帝の即位後、御史大夫(ぎょしたいふ)になって実権を握ると、諸侯王の封地の削減に乗り出していきます。

前154年以降、些細な罪を口実にして楚王・劉戊(りゅぼう)から東海郡(とうかいぐん)を、趙王・劉遂(りゅうすい)から河間郡(かかんぐん)を、そして膠西王(こうせいおう)の劉卬(りゅうこう)から常山群(じょうざんぐん)を削り取っていきました。

呉楚七国の乱

こうした情勢の中、呉王・劉濞(りゅうび)は大きな危機感を抱くようになります。当時の呉は国内で銅山を開発して銅銭を流通させて、また海塩の生産で巨額の富を得ていました。他の諸国と比べても裕福であり、いつ削減令が下ってもおかしくありません。

前154年、呉に対して採銅地にあたる豫章郡(よしょうぐん)と、製塩地にあたる会稽郡(かいけいぐん)削減の命が下ると、劉濞は20万の兵をもって広陵(こうりょう)で挙兵しました。

これに楚王、趙王、済南王、菑川王(しせんおう)、膠東王、膠西王の六王が呼応して、【呉楚七国の乱】が起こったのです。

反乱の名目は「君側(くんそく)の奸(かん)である鼂錯(ちょうそ)の排除」でした。これに対してかねてより鼂錯を憎んでいた袁盎(えんおう)は以下のように景帝に進言します。

鼂錯(ちょうそ)を処刑すれば乱は収まるでしょう。

景帝は苦渋の決断の末、鼂錯(ちょうそ)を処刑。しかしそれでも反乱軍の動きは収まらなかったのです。それはもちろん劉濞の目的は鼂錯の排除ではなく、前漢王朝の転覆ですからね…。

結末

しかしこの反乱はたった3か月で鎮圧されてしまいます。

景帝から36人の将軍を預けられ、反乱の最大勢力である呉軍・楚軍とあたった大尉(たいい)周亜夫(しゅうあふ)は七国の連携の不備を見て、水軍によって繋がれていた敵国と戦場との糧道と戦場を遮断。

持久戦に持ちこんで呉・楚軍を兵糧攻めにします。やがて餓死する者や脱走兵が相次いだ呉・楚軍はやむを得ず撤退しようとしますが、周亜夫は容赦なくそれを追撃。呉・楚軍を徹底的に叩き潰しました。

劉濞はかろうじて戦場を抜け出し、かねてより支援を取り付けていた東趙軍と合流しましたが、東趙軍の裏切りによって亡き者にされました。

盟主が亡くなったことにより、諸侯王軍も解体。次々と自害を遂げます。

この出来事の後、景帝は中央から諸国に相(丞相)を派遣して統治していく、中央集権体制を布いていきます。王の人事権も取り上げられ、諸侯王は相が徴収する租税を受け取るだけの存在に。

領土の規模も縮小して、数郡を擁する大国は姿を消したのです。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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