生き延びるためどっちつかずだった鄭。楚と晋の真逆な対応から生まれた邲(ひつ)の戦い。

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城僕の戦い】で晋の前に敗北をした楚でしたが、前613年に即位した22代荘王(そうおう)の時代に、再び躍進を見せます。

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楚の荘王

即位してから3年間、荘王は政治を投げ出し、酒と女に溺れる生活を送りました。しかしそれは作戦で、信用できる家臣が誰なのかその人の人格や能力を見極めていたのです。

3年間もまわりを試してたんですか?!

こうして国力に力を注ぐようになった荘王は、人事を一新するとともに、周辺国の征討に乗り出し、領土を確実に広げていったのです。

前609年に庸(よう)を滅ぼし、その翌年には宋を打ち破り、戦車五百乗を戦利品として奪い取っています。

さらに前606年には陸渾(りくこん)の戎(じゅう)を、前601年には後顧(こうこ)の憂いを断つために羣舒(ぐんじょ)を討つとともに、呉(ご)・越(えつ)と同盟を結びました。

そしていよいよ、北方への進出を開始したのです。

邲の戦い

このころ、覇者である北方の晋と、南方から勢力を伸ばしてくる楚の間に挟まれた小国は、まさに戦々恐々という面持ちでした。

中でも特に両国からの侵攻が甚(はなは)だしかったのが鄭(てい)です。度々、侵攻を受けていた鄭ではそのたびに、楚または晋へと恭順(きょうじゅん)する国を変えていました。

力がものを言う乱世にあって、生き延びるための処世術という感じです。

しかし楚の荘王はそのどっちつかずの鄭王のやり方が気に入らず、前597年、鄭を征討するために鄭の都を包囲したのです。

これに対して晋は鄭を助けるべく、援軍を派遣します。こうして楚と晋の両軍は、黄河の南岸・邲(ひつ)で対峙することになりました。

鄭の救援に赴いた晋軍ではありましたが、すでにこの時、鄭は楚の圧力にあらがうことができず和睦を結んでしまっていました。皮肉なことに鄭軍は楚軍とともに晋軍と戦うしかなかったのです。

しかし晋軍は兵を引き上げることはせず、そのまま楚・鄭軍と戦うことを選びます。戦いは楚の大勝利に終わります。

『春秋左氏伝(しゅんじゅうさじでん)』によると、戦いのあと敗北した晋軍の兵は我先にと黄河を渡り、船で逃走しようとしていました。

しかしこの時、先に船に乗っていた兵が船の転覆を恐れて、船のへりに取りすがる仲間の指を片っ端から斬り落としていきました。そのためどの船にも、両手ですくえるほどの大量の仲間の指が甲板(かんぱん)に転がっていたそうです。

この邲(ひつ)の戦いを契機に、荘王の威勢は益々盛んになり、一方で晋の権威は失墜してしまいました。

社会制度の崩壊

こうして荘王は中原諸国を従えるようになり、覇者として天下に君臨したのです。しかし荘王はこれまでの覇者とは少し違い、それまでの覇者のように周王のもとで自らが覇者として任じられるようなことはしなかったのです。

当時すでに周王朝の権威は無いに等しく、そのうえ楚は元々、中原の諸侯ではなく、周王朝に従う義理もありません。

荘王は最初から、周王朝のもとに中華の秩序を維持しようという考えが無かったのです。

前7世紀、周王朝が構築した社会制度はもはや崩壊していたのでした。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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