400年続いた黄帝の世襲制度は夏王朝の誕生から?鳴条(めいじょう)の戦い。

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天下に安定をもたらした黄帝が崩御した後、その帝位は黄帝の孫・顓頊(せんぎょく)、黄帝のひ孫の帝嚳(ていこく)、帝嚳の子・堯(ぎょう)、堯の弟・舜(しゅん)の順に受け継がれました。

目次

夏王朝

舜がまだ堯の摂政を務めていた頃、黄河が何度も反乱を起こして人々を苦しめていました。そこで舜が顓頊の孫にあたる禹(う)に治水工事を命じたところ、禹は13年もかけてこれを見事にやりきりました。

そこで舜は高い徳を持つ禹に、帝位を譲りました。ここから夏(か)王朝の歴史が始まります。

禹が亡くなった後は、禹の子どもである啓(けい)に帝位を託したため、ここから400年に渡る帝位の世襲時代が切り開かれることになりました。

夏王朝が本当に実在していたかどうかは、いまだに明らかにされていません。

河南省偃師(えんし)県の二里頭(にりとう)遺跡から、殷よりも古い年代の青銅器が出土したことや、河南省登封(とうほう)県の王城崗(おうじょうこう)遺跡で大規模の宮殿跡が見つかったことから、実在したという見方もあります。

夏王朝最後の皇帝である、第17代桀(けつ)王の時代には、すでに王朝の諸侯に対する統率力は失われつつありました。それは全て、桀王の暴虐な振る舞いによるものでした。『史記』によると、

桀王は武力で国を支配したため、人民はその苦しみに耐えることができなかった。

また先秦(せんしん)時代の歴史書『竹書紀年(ちくしょきねん)』には、以下のようにあります。

桀王が豪華な宮殿を建てさせたため、人民の財産はなくなった。

鳴条の戦い

このような王に対して、人民たちの心は離れていく一方でした。そこで立ち上がったのが、夏王朝に方伯(ほうはく)として仕えていた湯(とう)です。天乙(てんいつ)とも呼ばれます。

湯は桀王と違い徳を治めており、天下の諸侯の支持を集めていました。湯はついに桀王を征討することを決意。諸侯たちに対して下記のように宣言します。

天に代わり、桀の罰を糾(きゅう)す。これに従わないものは処刑する。

そして諸侯軍を率いて桀王に激突。湯軍は士気が高く、もはや桀王軍など敵ではありませんでした。

まず有娀氏(ゆうじょうし)の旧跡で桀王軍を打ち破った湯は、敗走する桀王を追って鳴条(めいじょう)へと軍を進めます。

鳴条の場所は現在の山東(さんとう)省遠城(おんじょう)の東北部、現在の河南省封丘(ふうきゅう)県東部とする説がありますが、定かではありません。

そして鳴条でも湯は桀王をことごとく撃破。桀王を捕らえ、追放刑に処して亡き者にしました。ここで夏王朝は滅亡したのです。このとき一帯では雷雨がやむことが無かったと言われています。

その後、湯は三そうを制圧して、そこにあった宝玉の数々を全て奪い取りました。そして諸侯への褒美として分け与えたのです。

こうして桀王に代わって全ての諸侯を従えた湯は、諸侯に推戴されて天子の位につき、殷王朝を創始します。そして新たな暦を作成するとともに、官吏の序列の服の色を改め、白色を最も尊ぶとしました。

また朝議(ちょうぎ)を昼間に行うなど、制度の全てを一新したのです。

なお桀王を滅ぼした湯でしたが、その子孫までもは滅ぼさず、桀の子孫に領地を与えています。桀の血筋はその後も脈々と受け継がれ、周王朝の時代には、杞(き)の地に領地を移されています。

司馬遷の『史記』に関する大きな流れをまとめた記事はこちらです。

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