キングダムは司馬遷(しばせん)が描いた古代中国『史記』の世界。

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司馬遷の『史記』という読み物があることは、学生時代の国語や歴史の教科書に一瞬出てくるので、名前だけは聞いたことがあるという人が多いと思います。しかし実際に読んだことある人は少ないのでは?私はしっかり全部読みましたという人は、なかなかの歴史通だと思います。

私は2023年の年明け早々に、新型コロナウイルスに初めて感染しました。自宅待機を余儀なくされ、家族に移すと大変なので部屋ごもり生活をする中で、時間を紛らわすために携帯でU-Nextを見あさることになり出会ってしまったのです!

まずは映画版の『キングダム』、『キングダム2遥かなる大地へ』を見ました。「おもしろい・・・。」

次にもっと詳細を知りたいなと思い、アニメのキングダムを見ました。第1シリーズから第4シリーズまで大量にありましたが、時間が有り余っていたのもあってどはまりして一気見。「続きが見たい。もっと知りたい。」

2023年5月には映画版『キングダム3』の予定があり、アニメの第5シリーズも2024年1月からテレビで放映されています。歴史背景や実際に存在した人物なのかなどが気になり、司馬遷の『史記』までたどり着きました。今回は『史記』について紹介したいと思います!

目次

著者の司馬遷

『史記』の著者、司馬遷は司馬が名字で遷が名前です。前145年ごろに竜門(りゅうもん)現在の陜西省韓城県(しゃんせいしょう かんじょうけん)に生まれました。

司馬遷の父親は司馬談(たん)という名前で、天文や暦法を扱う太史令(たいしれい)という役職についていました。天文・易・道家の学に詳しい父親の教育により、司馬遷は10歳で文字を教えられ、古典を読みました。

父の遺言を実行するため、司馬遷は太史令(たいしれい)になり、官庁に保管された資料を読み『史記』の執筆に着手します。

ここで抑えておきたいのは、司馬遷は趣味や余暇の時間に史記を執筆したのではなく、太史令の職務の一環で歴史書として『史記』を記録したのです。(前104年から前96年の7年間)

しかしある出来事で、司馬遷は太史令をやめさせられます。匈奴に降伏した李陵を弁護したことが、武帝の怒りに触れてしまったのです。死刑を免れるために、宮刑を受けることを選びます。

宮刑の内容とは、宦官(かんがん)と言って男根を切除して、男であることを捨てて宮仕えをすることです。それは当時、生き恥をさらす行為であり、そこまでしても未完成のままの『史記』を書き続けることを選んだのです。

孔子や屈原(くつげん)、韓非子といった偉大な人々もみな、苦境に置かれることで優れた著書を世に送り出したのだと、司馬遷は屈辱をもバネにしたと伝えられています。

史記の流れ

『史記』は中国の歴史書で、黄帝(こうてい)から前漢武帝期までを書いたものです。

『史記』という名前ですが、当初はそのような名前では呼ばれていなかったんですよ。正式名称は『太史公書(たいしこうしょ)』といい、太史令の役職についていた人が書いた書という意味です。

『史記』という名前は、歴史の記録の意味を持つ普通名詞にすぎず、実は司馬遷が『史記』と呼んでいた記録もないのです。

第一章 古代王朝の交代

司馬遷の『史記』では、黄帝を筆頭とする5人の聖王(せいおう)の時代から始まります。

天下を治めていた炎帝神農氏(えんていしんのうし)の権力は衰え、各地で侵略が繰り返されていました。そこで黄帝は軍隊を率いて皆をまとめ、阪泉の原野で炎帝を滅ぼして天下を取ります。これが阪泉の戦いです。

世襲制ではなく、徳のある人物を後継者として、黄帝から顓頊(せんぎょく)、帝こく、堯(ぎょう)、舜(しゅん)と国を引き継いでいきました。

5人の聖王最後の舜の後継者・禹(う)が夏王朝(かおうちょう)を創設し、ここから王朝の歴史が始まります。夏王朝は17代、400年に渡り続きますが、最後の17代目の桀(けつ)がどうしようもない暴君でした。それをみかねた湯(とう)が桀をやっつけて天下を取ります。これが鳴条の戦いです。

ここからは殷(いん)王朝の時代です。殷王朝も500年以上続くのですが、やっぱり最後の紂(ちゅう)という名の王様が女の人に溺れて恐怖政治をし反感を招くことになります。

そこで周の武(ぶ)という王が挙兵して、紂王をやっつけるために殷の王都に攻め込み、紂王を自害へと追い込み天下を取り、周王朝を開くのです。これが牧野の戦いですね。

こうやって見ていくと王様がダメな人間だと反乱が起きて、反乱を起こした新しい王様が新しい国を作っての繰り返し。今も昔も根本は変わりません。

第二章 諸侯の紛争

殷王朝を滅ぼして、周王朝を開いた武王の後を継いだのは、その子供の成(せい)王。だが成王はまだ幼なかったので、武王の弟の周公旦(しゅうおうたん)が政務を司ります。

周公旦は安定した国の基礎を形成するために、新たな都の成周(せいしゅう)を建国します。

8世紀、周の12代・幽(ゆう)王が、褒似(ほうじ)という名の女性を寵愛したことにより、政治が乱れ反乱が起きます。幽王は滅ぼされ、新らしく平(へい)王という人物が擁立され即位します。

しかしこの頃には既に周王朝の権威は失墜していて、各地で力のある諸侯たちが互いに争うようになっていました。ここからが春秋時代と呼ばれています。

そうした中、諸侯に対して周王に代わり号令をかける覇者が登場するようになり、亡国の復興や断絶した諸侯家系の復活などを行いました。中でも斉の桓公(かんこう)、晋の文公(ぶんこう)、楚の荘王(しょくおう)、宋の襄公(じょうこう)、秦の穆公(ぼくこう)が【春秋の五覇(ごは)】として有名でした。

しかし前5世紀になると、諸国内で大夫(たいふ)が諸侯より勢力を強めるという下剋上が起きてきます。周辺諸国に大きな影響力を持っていた晋国内で内乱が勃発。前453年には趙氏(ちょうし)、韓氏(かんし)、魏氏(ぎし)が晋を三分割にします。これが晋陽の戦いです。

前403年、周王朝の威列王(いれつおう)はこの三氏を正式に諸侯として承認します。ここからが戦国時代の始まりになります。

第三章 七雄と始皇帝

晋が趙・韓・魏の三国に分裂したことにより、中華は戦国時代に突入。弱肉強食の世界になり、斉、楚、秦、燕(えん)、趙、韓、魏の七国が争うようになります。この七国は【戦国の七雄(しちゆう)】とも呼ばれていますね。

戦国の七雄の中でも特に「秦」が強大な勢力を持っていて、単独では秦と戦っても勝てる見込みがありませんでした。ここで合掌軍(がっしょうぐん)が編成されるのです!

前318年、韓、魏、趙、燕、楚の五国が協力して秦へ攻め込むのが、函谷関の戦いです。秦 対 5国で不利と思いきや、秦が勝利をおさめるんですよ。

前353年 桂陵(けいりょう)の戦い

前341年 馬陵(ばりょう)の戦い

前318年 函谷関(かんこくかん)の戦い

前284年 済水西(せいすいにし)の戦い

前279年 即墨(そくぼく)の戦い

前273年 華陽(かよう)の戦い

前262~260年 長平(ちょうへい)の戦い

前259年 邯鄲(かんたん)の戦い

前247年 河外(かがい)の戦い

前241年 函谷関(かんこくかん)の戦い

前239年 成蟜(せいきょう)の乱

前238年 嫪毐(ろうあい)の乱

秦による中華平定戦

 ・前230年 秦が韓を滅ぼす

 ・前228年 秦が趙を滅ぼす

 ・前225年 秦が魏を滅ぼす

 ・前223年 秦が楚を滅ぼす

 ・前222年 秦が燕を滅ぼす

 ・前221年 秦が斉を滅ぼす

前221年 秦が中華統一

前256年、秦は東周を攻め滅ぼします。これで周王朝の800年以上の歴史にピリオドが打たれます。

前230年、秦は韓を滅ぼしたのを手始めとして、前228年に趙を、前225年に魏を、前223年に楚を、前222年に燕を、前221年に斉を滅ぼして中華を統一し、秦王の政は自らを始皇帝と名乗り、天下に君臨します!

第四章 秦王朝の崩壊

中華統一を果たした秦の始皇帝・政は、文字や度量衡、貨幣を統一したり郡県制を強いて中央集権体制を整えていきます。しかし始皇帝・政が亡くなると雲行きが怪しく・・・。

巡幸の途中で病で亡くなった後、宦官の趙高は始皇帝が亡くなったのを公にせずさらに遺言を偽って、始皇帝の末子の胡亥(こがい)を皇帝として擁立しました。

胡亥は言われるがままに悪政を行い、農民に負担をかけます。当然に農民は秦に反発するようになり、ついに史上初の農民の反乱である陳渉・呉広の乱が起こるのです。

この反乱に刺激され、各地でも秦に対する敵対勢力が立ち上がります。それが楚の項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)です。

前206年 項羽が秦王・子嬰(しえい)を滅ぼし、秦王朝は滅びます。

秦が滅亡した後、主導権を握ったのは項羽ですが、劉邦はこれに反旗を翻し戦います。これが楚漢戦争です。結局、劉邦が勝利して皇帝となり前漢王朝を開くのですが、この楚漢戦争が5年とか長い間、戦うことになるんです。

第五章 前漢王朝の外征

前202年、項羽を破って前漢王朝を開いた劉邦(高祖)は、中華の西半分を自分の直属領に、残り東半分を諸侯王に管理させて天下を治めていきます。

前201年、北方の遊牧民族である匈奴(きょうど)が、万里の長城を越えて漢の領土に勝手に入ってくるなど事件が起こります。前200年に劉邦は自ら軍を率いて匈奴を攻めますが、返り討ちに合います。これにはビックリ・・・。匈奴と敵対するのは無理だなと悟り、そこからは和親政策で対応します。

中華の東半分の諸侯王には広大な土地と統治権が与えられていたため、6代皇帝の景帝(けいてい)の時代には独立国を形成できるほどの勢力を持つまでになっていました。これはまずいぞと、諸侯王の土地を削減して勢力を弱体化させようとしますが、反発した諸侯王が反乱を起こします。これが呉楚七国の乱です。

この戦いでは景帝が勝って、諸侯王の実権を取り上げていき、皇帝による中央集権体制を目指していきます。景帝のあとを継いだ武帝(ぶてい)の時代には、事実上の全国直轄支配を成し遂げました。

残る敵は匈奴だけ。匈奴に対する和親政策をやめて、どんどん匈奴を攻めていきます。衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい)の活躍で、漢の領土から匈奴を駆逐することに成功します。

ここまでで前漢王朝の時代です!次は後漢王朝になりますが、『史記』での記述はここまでになります。

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